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第511話 〜2001/5/23〜

■ダルマさんのルール

 外で遊ぶ遊びとなると、それなりの人数が必要となるものが多い。鬼ごっこもかくれんぼも2、3人で遊べるものではなく、10人までとは言わなくても、やはり5人以上いないと面白くなく。逆にこの人数でテレビゲームで遊ぶのは難しい。今の子ども達が外で遊ばなくなったのは、少子化により、その頭数が集まらないからだというのも一理ありそうな気がする。元来、子ども達は外で遊ぶことが好きなはずだ。

 かつての子どもの遊びには全国共通のルールがあるものの、地方地方に様々なローカルルールというものが存在した。このローカルルールの存在理由は、情報の流通が遮られて断片的に伝わり、それを個々がオリジナリティーで補った結果であろう。掛け声や歌の部分でこのズレというのが多く存在しているようだ。例えば、「ダルマさんが転んだ」はその顕著な例であろう。

 詳しく調べたわけではないが、全国的なスタンダードな呼び名として、「ダルマさんが転んだ」が存在している。これは指を折って数えれば分かるが、10音節の言葉で、幼児が数字やその配列を覚える前に、数を数える言葉として代用されていた。これが関西圏に行くと「坊さんが屁をこいた」になる。言葉の意味としては何の共通点もない。ただ、大阪らしくて面白いのは確かであるが、これも10音節の言葉である。

 一方、私が生まれ育った九州のとある地域では、これがまた別の掛け声となる。その掛け声を本当はここで書こうと思ったが、人種差別そのままの言葉であるので控えることにした。ご容赦願いたい。何とダルマさんや坊さんがここでは露骨な人種差別用語へと変化してしまっていたわけだ。ただ、私達は何の悪意もなく、その言葉を使用していた。もちろん、どうしてその掛け声なのかも分からない。今でもその掛け声のまま、我が故郷の子供達がこの遊びを続けているかどうかは残念ながら確認できていない。

 さらに、単に言葉が変わるだけでなく、これに抑揚と言うかメロディが付いていた。私の地方の言葉も表記上は10音節であるので、同じ音節数の「ダルマさんが転んだ」を代用し例を示すと、「ダルマーさんがーこーろんだ」となる。このとき、リズムパターンとしては、文字で表せば10音節であったものが、そのメロディに乗せて音にすると、不思議と7音節(7拍)になっている(「ダル・マー・さん・がー・こー・ろん・だ」)。

 ローカルルールは、単に言葉を変えるだけではなく、リズムパターンやメロディをも変えていたという例である。あなたの遊んだパターンも教えて欲しい。

(秀)


第512話 〜2001/5/24〜

■禁じられた遊び 〜馬乗り

 子ども達の遊びの中には危険を伴うため、学校からのお達しで「禁止」となるものがある。対象は火を使ったり、弾が飛び交うようなもの、あるいは交通上の危険にさらされるものなどが主であるが、中には今回話をするような一見健康的な遊びも禁止の対象にされたりした。馬乗りとは文字だけを見れば「乗馬」の様なハイソな感じがしないでもないが、実は「出家」と「家出」ぐらいの違いがあり、粗暴で危険な遊びということでめでたく禁止され、廃れていった。その後、どこかで復活したかもしれないが、このままでは永遠に人類の記憶から葬り去れるやもしれないので、ここで文字として記録を残しておきたいと思う。

 【遊び方】
・人数:10人程度、同人数の2チームに別れる。
・必要なもの:壁
1.じゃんけんで先攻、後攻を決める。
2.守備側のうち1名が壁を背に少し足を開いて立つ。
3.守備側の次の者が前屈姿勢で上記の者の股間に頭をはさむ。
4.守備側の残りの者は順に前屈姿勢で前の者の背後から股間に頭をはさむ。
5.馬が完成した後、攻撃側は順に馬に飛び乗っていく。
6.攻撃側の最後の者が乗り終わった時点で、守備側の立っている者と
 攻撃側の先頭の者がじゃんけんをする。
7.攻撃側が勝った場合は、再度攻撃のやり直し。
 守備側が勝った場合は、攻守入れ替え。
8.この他にも、
 途中で馬が壊れたとき(床に手を着いてもダメ)は、守備側の負け、
 途中で攻撃側のいずれかが馬から落ちたとき(床に足を着いてもダメ)は、
 攻撃側の負け、
 となる。

 この遊び自体を我々がどうやって知り得たのかは、もはや解明が難しいが、小学3年生の頃、休み時間の度にこの遊びを繰り返していた。これは男の子の遊びである。当時、男女対抗で遊んだような気もするが、男女が仲良く遊ぶような内容ではないし、女の子だけでこんな遊びをしていたとなると、いくら丙午の女性とはいえ、危険以前の問題で禁止になることだろう。

 一見、守備側の立ってる奴は楽そうに思えるかもしれない。しかし、男の子の場合、股間にはナニが付いているので、馬に人が飛び乗る度にそこに衝撃が集中し、結構大変である。攻撃上、ちょっとのデブなら重宝がられるが、極端なデブは敬遠され仲間に入れて貰えなかった。

(秀)


第513話 〜2001/5/25〜

■コレクション道

 私のコラムの心の師は泉麻人氏である。勝手な思い込みにすぎないが。氏のコラム本に「コラム百貨店」というのがあって、それにあやかり「コラムのデパート」という冠を付けた次第である。これまた、勝手な思いでしかない。

 氏の最近の新刊文庫本に「東京、10の短編とちょっとした観光案内(朝日文庫)」という短編小説集がある。文字通り、彼が得意とする東京の地理の情報を舞台にした短編小説が10編納められているが、その中の一編にヴィンテージジーンズをコレクションしている青年を主人公とした話がある。主人公が自分のジーンズに関する知識をホームページを公開しているという設定で、うんちくが披露されている。新品のジーンズを良い感じに脱色させ、ヴィンテージ感を出すための方法、”育て方”が綴られている。「アタリ」や「ヒゲ」といった、コレクターにしか分からないような用語が説明を折り混ぜながら出て来る。

 さて、前振りが長すぎたが、本稿のテーマはコレクションである。コレクションの中では、未使用や完品という美品狙いで成り立っているものがある。これは傍目にも分かりやすい。ところがヴィンテージジーンズのように、一見汚く、穿き古したようなものに価値を与えている分野もある。これは外の人間には非常に分かりにくい。浜崎あゆみも自ら穿き古して、ベストジーニストの称号を得るに至っているのだろうか?。

 コレクションには多大な金と暇が必要である。しかし、メジャーな分野のコレクションはほとんど金しだいというものが多い。メジャーなためマーケットがあり、総じて値付けされているわけだ。ここで大いなる疑問が生じる。金さえあれば、コレクターとして優れているのか?、知識さえあればコレクターとして優れているのか?。知識は単に本からの受け売りかもしれない。技術がないのにモノを持っていれば、コレクターとして優れているのか?。

  
(次号へ続く)

(秀)


第514話 〜2001/5/28〜

■コレクション道 後編

 <前号からの続き>

 例えば、時計のコレクションは簡単である。金さえあって、多少のうんちくが語れればコレクターになれる。技術など一切必要とされない。それに引き換え、満足な写真も撮れないのに、高価なカメラを買い集めるのはむなしい。弾けない楽器もそうである。だからと言って、金に任せて集めた時計のようなコレクションもやはりむなしい。単にモノを集めるだけなら、そのショップのオーナーにかないはしない。

 そもそも人は何故モノを集めようとするのか?、という疑問の解明から始めるのが良いだろう。最初のきっかけはコレクションの対象物である、その個体に対する魅力であったはず。それをまず手に入れる。そして、その魅力を観察しているうちに、次のものが欲しくなる。このあたりで止めることができるようであれば、趣味としてのコレクションではない。ところが、やがて、自分の集めたものに対して、価値を客観的に測ってみたいという欲求が生じ、もしこれ以上に進むとなると、それ以降は人の目を気にしてのコレクション段階に入る。

 それをコレクションと呼ぶかどうかは別として、本人が他人の目など気にせずに、面白がってモノ集めをするのは結構なことだと思う。「集めること」が目的となったコレクションはその価値基準が自己ではなく、外に求めている点でむなしい。かつて子供の頃に持っていた、つまらないものを宝物として大事にしていたような、大人には理解できない価値基準はどうして変化していったのだろうか?。結局のところ、私がたどり着いた結論は、「コレクションアイテムの価値を上回るような、価値あるコレクターなど存在しない」ということである。

(秀)


第515話 〜2001/5/29〜

■計算式

 「君!、この資料の数字間違ってるじゃないか?」。オフィスに上司の声が響く。急いで彼の席に駆け寄ると、彼は電卓を手に報告書の数字を何度も計算し直している。「ここだよ、ここ」。彼はパソコンよりも自分の電卓の方を信用している。確かに彼の指摘通り、数字の計算値が間違っていた。「ハッ!」と思って自分の席に戻り、その報告書のファイルを開くと、そのセルに入れるべき計算式に間違いがあることに気が付いた。

 こんな経験はないだろうか?。「まさか先月のデータも間違ってたんじゃないのか?」。毎月同じファイルをコピーして使用しているため、おそらくそうであろう。彼からのこの問いに対して、満足に返せる言葉がない。「君のミスは私のミスになるんだ」。「(そのミスを見つけるのが、あんたの仕事だろう)」と心の中で毒づいてみても、自分の失敗振りに気は紛れない。

 こんなことは結構日常茶飯事かもしれない。毎日どこかの会社で必ず起きていることだろう。しかし、こんなことが人の人生を変えてしまうこともある。先頃、山形大学で発覚した、工学部入試合否の判定ミスの話である。今年だけでも90名、過去5年にわたって、500人近くの受験者が大学側の不手際で不合格にされていた事件だ。センター試験の国語の評点を現代文だけ(100点分)を対象にし、その値を2倍して総合点に加算する傾斜配点のはずが、2倍されることなく、古文や漢文の点も含めた200点満点として集計対象とされていたらしい。今年から始まった試験成績の開示を受けた受験生が、2倍するからには必ず国語の点数は偶数になるはずのところを「どうして国語の点が奇数なのですか?」と問い合わせたところで、これまでの不手際が発覚した。

 一般の新聞報道ではこの原因を「プログラムのミス」と表現していた。しかし、現地の地方版ではさらに細かく報道がなされ、このプログラムというのは(パソコンの)表計算ソフトであることが分かった。センター試験の結果を受け取って、それを大学側で表計算ソフトに入力(インポート)していたらしい。確かに数千人のテストデータの集計ぐらい、この程度のシステムで十分である。「プログラムのミス」というのは正しくない。表計算ソフト自体のプログラムミスではなく、単に計算式の設定を間違っただけというのが事実だったようだ。なまじ単純な式であるため、見直しも不十分であったのだろう。工学部でありながら、これを5年もの間放置して、自ら気付くことがなかったとは。

 今年救済された人はまだ多少救われる。不合格の翌年に再受験して合格した人もいた。彼らの浪人した1年は何だったのだろうか?。既に他の大学に進んで卒業してしまった人もいるはず。山形大学内では「文部科学省が補償のために10億(円)用意したらしい」との噂話まで出ているらしい。たかだか、計算式の間違いといった単純なミスでありながら、この被害を完全に収拾する方法はない。

 この計算式を担当した職員の発覚後の気持ちは如何ばかりのものだろうか?。ほとんどの人は耐えられないだろう。そのことを思い、今度は何度も報告書の計算式を見直している。「オーイ」。「(また上司が電卓片手に次の奴を呼んでいる)」。

(秀)


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