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第66話 〜1999/7/14〜

■世紀末

 ちょっと前まで、20世紀の終わりが1999年だと思っている人が結構いた。ちょうど100年前にも同じ様な事で、イギリス政府も1900年を20世紀の始まりと公に発表し、その後に修正することがあったらしい。1年から100年までが世紀となるのは、西暦0年が存在しない事を考えれば明らかである。

 今年が世紀末であると思う人が多い理由の1つに聖飢魔Uの存在がある。「1999年に地球制服を完遂し解散する」と以前より公言していた。そのせいで誤解している人がきっといることだろう。彼らがメディアに露出し出したころは、ほとんどの人が1999年までこのグループが持つはずないと思っていたから問題なかったが、現にその年を迎えてしまった。当初この解散は7月に予定されていたらしい。しかし、マネージャーのミスで今年一杯活動するだろうということで、その後のスケジュールも入れられてしまい、解散が12月まで延びたらしい。地球制服を5ヶ月先送りさせた恐るべきマネージャである。

 さて、世紀末の2000年は閏年である。閏年というのは4年おきに自動的にやってくるものだから、何という感慨もないだろうが、実は西暦が100で割り切れる年は閏年から除外することになっている。よって、1900年は閏年ではなかった。また、例外規定がある。西暦が400で割り切れる年は閏年となるのである。よって西暦2000年は400年ぶりの意味ある閏年なのである。

 しかし、2000年や21世紀というのが何故めでたいのだろうか?天文学的には何の根拠も存在しない。21世紀になったところで急に何かが変わることもない。逆に世紀末に世情が荒れたり、景気が停滞すべき理由もない。要は世紀末であることを理由にこじつけているにすぎない。新世紀の到来とともに景気が回復するのならそれでも良いが、100年おきにこんな事が繰り返されるとすれば、全くもって「うひゃひゃひゃひゃ。ヒデーモンだ」。

(秀ーモン)


第67話 〜1999/7/15〜

■放送禁止の歌

 長野オリンピックの閉会式で流れた、「WAになって踊ろう」という曲はV6も歌っていたけれども、そもそもはAGHARTA(アガルタ)というグループの曲である。そのアガルタというグループはCDのジャケットでは頬被りをしているし、テレビなどには露出しないため、謎の多いグループである。私もメインボーカルでプロデューサでもある、長万部太郎(おしゃまんべたろう)以外の正体を知らない。長万部太郎とはなんともふざけた名前であるが、正体は角松敏生である。世の中には数多の放送禁止歌が存在するが、今回は彼の曲で放送禁止になっているものについて語りたい。そもそも、「(彼の曲を)放送で聞くことがない」という人があるかもしれない。あなたは正しい。テレビには出ない。FMを聞かない人にはそうかもしれない。

 これは彼自らNHK FMの中で話していたことである。NHKでは絶対に掛けられない曲が2曲あると。その1つは「Girl in the Box」という曲である。曲のサビの部分の歌詞に「このままじゃ気が狂いそうさ」というのが出て来る。「気が狂いそうさ」という部分がダメなわけだ。あいにく番組の中で直接的に「『気が狂いそうさ』という部分が」と言ったかどうかは覚えていない。歌の歌詞でなくてもこれは放送禁止の言葉のような気がするが。この番組はスタジオライブとしゃべりで構成されており、この話題を紹介した後に問題の「Girl in the Box」のライブテープが流れた。「オイ。オイ」と思い、耳を澄ましてサビを待っていたら、「このままじゃ....(歌詞なし)」とごまかしていた。ちょっと力が抜けてしまった。

 もう1曲は「TOKYO TOWER」という曲である。確かに歌詞の中に「君を貫いても」という淫靡な歌詞が出て来る。しかし、このせいではない。ズバリ、曲のタイトルからしてダメなのである。彼の説明によると「東京タワーは株式会社東京タワーであり、特定の私企業を宣伝する内容だからダメ」というものだった。その後何年かして私が東京タワーに登った時はそんな会社の名前ではなく、「日本電波塔株式会社」となっていた。彼の勘違いかもしれないが、会社名でないとしても登録商標だったりするかもしれない。サビでは「TOKYO TOWER」と連呼する曲のため、さすがにこの番組では流れなかった。

(秀)


第68話 〜1999/7/16〜

■複製

 最近は音楽CDからCD(正しくはCD-Rであるが)に音楽を録音できるようになった。曲を選んで、まるでテープやMDのように録音できるのである。パソコンではCD-Rのドライブさえあれば随分当たり前の話であるが、家電でオーディオ専用のCD-Rデッキが発売された。ディスク丸ごともコピーできるが、それはパソコンのディスクコピーとは違い、ディスクの全曲をダビングしたにすぎない。ただ、好きな曲順に入れ替えて録音できるのである。レンタル屋等で借りたCDからCD-Rにコピーする輩が出て来ることだろう。それを見越してか、デッキ自体のレンタルも始めてたりする。

 最近の著作権の解釈では、「個人的な使用の範囲」であれば複製をしても良いことになっている。しかし、複製ではなく原盤であったにしても私的範囲を越えての使用は禁じられている。例えば、喫茶店でCDなどの音楽を掛けることは、それが原盤であっても著作権法では制限されている。ここで言う制限とは、「権利者の承諾を受ければOK」という意味である。よって、手持ちのCD等の音楽ソースは原盤、複製のいずれに関わらず、個人的な範囲で聞くことしか認められていない。

 となると原盤と複製の権利上の違いは、それを他人に譲渡できるか?ということになる。中古になるが原盤は人に売ることはできる。複製品は販売どころか譲渡すら処罰の対象になる。利益を得たかどうかが問題ではなく、オリジナルの販売に影響を与えたかという点で判断される。昔よくやっていた、他人にダビングしてもらうというのはペケだ。

 今回の専用デッキによるCDからCD-Rへのコピーであるが、全く同じものができるわけではない。なぜなら、この両デッキ間の接続はアナログのままだからである。実際に聞き分けられるかどうかは別として、両方のディスクのデジタル信号を比較してみるとイコールにはならない。最近の著作権をめぐる関心事はデジタル→デジタルの複製である。現在民生用で唯一認められているのは、MDだけである(DATのことはよく分からない)。しかし、MDはデータを圧縮して記録し、再生時に解凍しているため、多少データを間引いており、クローンというわけではない。しかも、それは一世代のみで、MD→MDの複製は一旦アナログを経由した形で行われている。

(秀)

※今回はオチも笑いもない内容でした。


第69話 〜1999/7/19〜

■フレッシュ

 店でその価格差に迷うものがある。そば屋でのざるそばともりそばの50円の価格差。うどん屋でのうどんとそばの10円の差。喫茶店でのホットコーヒーとアイスコーヒーの価格差50円。逆にきつねうどんとたぬきうどんが同じ値段というのも許せないが。ざるともりの違いは、きざみのりだけでなく、ダシの違いがそもそもはあった。ざるそばは一番ダシを使用する。うどんとそばを原料で比較すると小麦粉よりもそば粉の方が高い。そばをそば粉100%で出そうとなると、10円の差では割に合わない。これはそのほとんどが小麦粉でそば粉は色付けほどにしか使用していない証拠である。所詮はうどん屋ということだろう。

 それに比べると、アイスコーヒーがホットより高いのは何となく納得がいく。氷代と手間賃。それ以外に豆の使用量の差がある。アイスにすると味が分かりにくくなるため、豆を余計に使用するらしい。しかし、中には許せない喫茶店もある。アイスコーヒーのオーダーが入ると、グラスに氷を入れ、冷蔵庫から麦茶入れのようなプラスティック容器(しかも柔らかめで半透明)を取り出すとそこからコーヒーをおもむろに注ぐ。これを見てしまうと、400円のアイスコーヒーも200円しか払いたくない。もっとひどいのになると、冷蔵庫から「業務用」と書かれた紙パックが取り出され、グラスに注がれるときもある。こういう店ではオレンジジュースも同様に冷蔵庫から出来合いものが出てくる。オレンジジュースとメニューに書くからにはミキサーで「ガーッ」とやってもらいたいものだ。

 関西圏ではアイスコーヒーに入れるミルクを「フレッシュ」と言うらしい。関西圏を除く地域では通用しないが、地元ではみんなそう呼ぶそうだ。どこかの商標なのだろうか。ついでにフレッシュを巡るもう1つの疑問は、そのフレッシュを店員が入れてくれることである。「フレッシュお入れしましょうか?」。「ああ、入れたって」。スムーズにこの言葉が出るまでは大阪でアイスコーヒーは飲めないようだ。そうそう、関西圏では「レイコー」とオーダーするのは今も有効なのだろうか?。ちょっと照れてしまいそうだ。そんな思いまでして頼んだコーヒーが冷蔵庫から出てきたら、そのときは許さん!

(秀)


第70話 〜1999/7/21〜

■モノ探しあれこれ

 モノや情報を探すには2つのパターンがある。それは、最終的な対象物が決まっているか否かによって分かれる。それによって検索のプロセスが異なる。前者は、最終的な対象物は決まっているものの、はっきりとしない場合などだ。例えば、カラオケで歌いたい曲が決まっているのだが、曲目が分からないといった場合だ。最終的に必要な情報はマシンにエントリーする番号である。曲目が分からなくても歌手名が分かっていれば歌手別索引からそれらしい曲目を探し出すことになる。周辺情報によって不足部分を補い、最終目的を具体化していく例だ。一方後者は条件により対象を絞り込み、最終対象物を決定する場合だ。「久保田歌ってよ。バラードの(この場合の久保田は一緒に飲んでいる久保田氏ではなく、歌手の久保田利伸のことだ。彼の曲を歌えということだ)」と指名が来ると、歌手別索引から曲を探し出すわけである。バラード調かどうかは指名を受けた私の頭の中のデータベースを検索することになる。

 人間の検索能力がコンピュータに比べて優れている点がある。曖昧さという点におけるそれだ。「キャノン」と間違っていても「キヤノン」としてデータをピックアップすることができる。もちろん半角文字でも可能だ。それが、コンピュータとなるとそうにはいかない。本来同じものでも、「マック」と「Macintosh」の様に表記が異なれば別のデータという扱いになってしまう。人間なら頭の中でこれらを正規化しているわけだ。「マック」と「Macintosh」が同一であると判断するのは経験によるものだ。また、いずれの語句に正規化しているかは結構曖昧だったりもするが(日によって違ったりする)。

 ただ、探し出す対象範囲には限界がある。いくらインターネットが世界に繋がろうと何千万サイトあろうと、いつも見ているデータは日本語の限られた数のサイトであることがほとんどだ。書店の本を全て読むこともできない。探し出したモノより本当はもっと良いものがあったとしても、それを検証することは容易ではない。ましてや人生の伴侶となると極限られた範囲(時間的にも)でしか検索できないわけである。

(秀)


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