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我が家の台所には「おやつの引き出し」なるものが存在する。子供達が買ってきたものも含め、お菓子の類はここにしまわれている。私も夜に口寂しいときなど、そっとこの引き出しを開けてみたりする。
「うまい棒 たこ焼き味」を発見。食べてしまった。食べ終わって、「これは誰が買っておいたんだ?」という疑問が生じ、こっそり食べたことが心苦しくなった。
財布から10円玉を2枚取り出した。食べたのは10円分だが、プラス10円はお詫びと手間賃のつもり。うまい棒の空き袋にその10円2枚をセロテープで貼り付け、その空き袋をそっと引き出しの中に戻しておいた。
(秀)
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203X年。ショッキングな事件が起こった。出生時に双子のクローン人間として誕生した一方がもう一方を刺殺するという事件だ。自分のクローンとは言え、別の生命体としての人間を殺したわけだから普通に殺人罪を適用すれば良いようだが、犯人の動機や供述を知るにつれて、ことが単純でないことに改めて気づく。
犯人の供述から洩れ聞こえてくるのは、
「あいつのせいで、俺はいつも半人前の扱いをされていた」
「おれはあいつの存在なんか認めちゃいない」
「あいつは俺のクローンなんだ。俺は自分のクローンなんかいらない。だから殺った」
「俺があいつを殺らなければ、俺があいつに殺られていたに違いない」
というものだった。
やはり普通の双子とは感覚が大いに違っている。クローン双子の全てがこのような感情を持っているとは限らないが、一旦相手に憎悪の感情が芽生えると、同じように相手も自分に対してそういう感情を持っていると判断してしまうのはクローン双子に特有なことだろう。また自分が望みもしなかった自分のクローン人間が存在するというのも、その憎悪のきっかけになるのかもしれない。ただ、犯人が勘違いしているのは、クローン双子の場合、受精後母胎に着床してから後は、自分がクローンなのか、相手がクローンなのかは誰にも分からないはずだということだ。
そしていよいよこの事件に対する初公判が東京地裁で行われた。検察は当初の方針通り殺人罪を適用し、彼(太郎:仮名)を起訴した。多くの人々の関心は、自分が望みもしなかった自分のクローン人間の存在を抹消することに対して裁判官が何と言及し、情状が酌量されるものかという点であった。
ことは裁判の冒頭に起きた。裁判官の人定尋問に対し被告の太郎は「自分は(殺害された)次郎(仮名)だ」と言った。場内がざわついた。検察は次郎を殺害した犯人として太郎を起訴した。刑事訴訟法上、被害者と犯人を特定しなくてはならない。これが犯人の偽証で、裁判の混乱を狙ったものだとしても、彼が太郎であるのか次郎であるのかを断定する科学的な手がかりは何もない。クローン人間の一方が殺された事実は明白だが、姿形、指紋もDNAも同一である両者の事件を裁くことは冒頭からつまずいてしまった。法律の盲点はここにもあった。
-- この話はフィクションです。---
(秀)
帰りの電車の中、いつもどおりFMラジオを点けるとこの日はアースデーということでレギュラーメニューでなく、特別番組を放送していた。アースデーというのは地球環境について考える日ということで、そのイベントとして日本武道館で大々的にライブを行い、その模様をラジオで中継していた。聞けば聞くほど、考えれば考えるほど腹が立つ。
全国FM放送協議会と某石油会社が主催するイベントである。この一連の地球環境の保護に対する運動には大いに賛同する。ところが、である。石油会社が主催する環境保護というのは果たして本物なのだろうか?。地球温暖化を一つとっても、その原因である化石燃料の燃焼に飽くなき利潤の追求を行っているのは誰だ?。アースデーと銘打ち、この日に行動を起こすぐらいなら、自分のところのガソリンスタンドを一斉休業にしてでもその態度を示すべきだろうが、そんな事をするわけでなく、環境保護と言いながら、現場では油を売ることに終始している会社の環境保護など信じるわけにいかない。
それに、このコンサートに来た客は地球環境のことなどほとんどどうでも良く、出演しているチャゲ&飛鳥などを見たいからだけに思える。その証拠に「地球環境を考えるシンポジウム」を武道館で開いたところで、彼らは決してやって来ないだろう。ましてや5,250円(このコンサートの入場料)という高額な入場料を払ってまで。
ついでにステージから環境保護のためのメッセージを吐く出演者もインチキ臭い。どうせ彼らは燃費の悪いでかい車に乗っているのだろう。仕事先での弁当の器は使い捨て、もちろん割り箸。チャゲアスがゴミの分別出しをするわけでもなく、レジ袋を持って買い物に行くわけもないだろう。
えーい、お前らみんな偽善者じゃー。怒りにまかせ、次の日の原稿まで書いてしまおう。つづく。
(秀)
環境保護と言って、まず何が思い浮かぶだろうか?。リサイクルや温暖化防止といったキーワードではなかろうか。例えば買い物に買い物かごやビニール袋を持ち歩くことは良いことである。きちんと分別してゴミを出すことも、牛乳パックやミートトレイなどを洗って回収することも立派なことである。しかし、それが地球環境にどれほど優しいのかが実感できず、一部の人たちの自己満足に終わってはいないだろうか?。
きっかけとしては身近なものから始めるのが良いが、その効果たるや、本来大きな問題を矮小化して満足させることにすりかえられているような気がしてならない。環境に優しいことを盛んにPRする会社も多いが、どこまで本気なのか疑わしい。例えば自動車会社。本気ならもっとハイブリッド車や電気自動車の開発に投資をすべきである。にも関わらず、ますますは排気量は大きくなり続けるとともに、次々に(ガソリン車の)新車を投入し、消費を煽るのが彼らの本音と言わざるを得ない。省エネを呼びかけていながらも次々に原子力発電所を作っている電力会社も五十歩百歩。
地球上から次々に森林が消えていく、木材の使用については、日本の場合、もっとも大きな木材の使用用途はコンパネだそうだ。分厚いベニヤ板である。コンパネとはコンクリートパネルの略である。木材が何ゆえはコンクリートパネルかと言うと、コンクリートを流し込むときの型に使用されるからである。住居の柱や床などに使用されるものよりも一時的にコンパネとして使用され、使い捨てされる木材の方が多いらしい。
こんなことはあまり報道されない。もちろん身近なリサイクルなども続けた方が良いが、根本のこれらの問題を解決しなければ環境保護の本格的な効果は期待できない。しかしそれは構造改革どころか、国内の産業構造自体を大きく変えることになる。自動車、建設、家電の各業界は衰退し、それに伴い国内の経済全体が立ち行かなくなる。みんなで地球を汚し続け、いつ登場するかも分からないクリーンエネルギーに期待を寄せて時を過ごすしかないのか?。便利さと引き替えた犠牲はあまりにも大きい。
(秀)
最近の芸能ネタで私が注目しているのは和泉元彌ネタである。何かチヤホヤされて彼の母親までも「笑っていいとも」のレギュラーで出演するに至っているが、マスコミにいじられているだけで、かつての野村サッチ―を思いだす。ものまね番組でダチョウ倶楽部の上島竜兵がまねをするのも共通している。今度はセッチーというらしい。世間的には好まれるキャラクタ―ではないはずなのにチヤホヤしているのはいつかスキャンダルネタを提供していることへの期待感からだろうか。
本人にも次々とスキャンダラスな事件が起きている(と言うか起こしている)。小さなところではドタキャンに遅刻。この報道のやり方に和泉ファミリーが置かれている立場と言うか、彼らをいじってやろう(もっと露骨に言うなら「叩いてやろう」)というマスコミの意図が見え隠れする。こんなことでも報道のしかた如何によっては世間大衆に「和泉元彌は悪い人」という印象を植えつける事なんか造作もない。普通はこの程度のことが芸能ネタになるのは珍しい。事務所の怖さがないからか。
そしてスキャンダルの最たるものは和泉流宗家継承問題だろう。狂言界のことは伝統という名で俗世から隔離され、その詳細は当事者以外には分かりにくい。彼が言う「世襲」がどれほど伝統として認められている世界なのか私にも分からない。テレビである人が「父親が横綱だったからといって、それだけで息子も横綱というわけではない」と暗に彼を批判していたが、完全実力の世界の相撲と、その多くが世襲により続いてきたような伝統芸能を一緒にして論じるのは極めて乱暴としか言い様がない。
早すぎる父親の死で急に若くして宗家を継ぐことになった。母親の意向も相当強かったことだろう。それはいつものマザコン振りを見るまでもなく分かる。一つは若すぎる宗家継承への不満、しかも芸もまだ未熟であるにもかかわらず、宗家の長男というだけで宗家を継承することへの嫉妬。そしてもう一つは彼の母親への批判。きっと無理クリ息子を宗家にするためにあのキャラクターで一門内や狂言界に多くの敵を作ったことだろう。
できれば母親ではなく、本人からいろいろと説明をするべきだろうが、でしゃばりの母親のせいでこの部分での彼の存在感は薄い。しかし彼が何と説明をしようと私は彼の言うことは信じない。だって彼は狂言師だから。
(秀)
「無理クリ」について
上記文中の「無理クリ」について、「無理矢理」の間違いでは?、との指摘を受けましたので、説明いたします。
まず、タイプミスではありません。漢字をあてるとする「無理繰り」でしょうか。
無理矢理と違う点は無理矢理が譲歩なしに押し進める感じがあるのに対し、無理繰りというのはいろいろと場合によっては策を変えながらも最終的には実を勝ち取るという雰囲気の言葉として使いました。
但し、広辞苑(第4版)にも載っていませんでした。
会話の言葉として、私の周りでしか使われていない言葉かもしれません。
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