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第816話 〜2002/8/7〜

■太陽を盗んだ男

 このタイトルの映画をご存知だろうか?。沢田研二主演で、'79年に公開されている。いつ頃だったか、私はこの映画をテレビ放送で見た。犯罪映画である。犯罪者を主人公にした映画やドラマがしばしば作られるのは確かだが、ちょっとその規模が違い過ぎる。この頃はこの他にもこの規模の犯罪映画が作られている。私がそう意識しているだけでも「新幹線大爆破」、それに「皇帝のいない八月」。いずれも敵は国、政府である。当時、世間がこのような映画に寛容だったことに今改めて驚く。

 「新幹線大爆破」は東海道新幹線の車両に一定速度まで車両の速度が落ちると自動的に爆発する爆弾が仕掛けられている。映画「スピード」のモデルになったのではないかと言われている(あっちはバスだった)。今思えばテロ映画である。既に走り出した新幹線は途中駅に止まることもできず、博多駅へと刻々と近づいていく。犯人は姿を見せず、新幹線の司令室にゆすりを掛けてくる。その犯人を高倉健が演じていた。もう一つの「皇帝のいない八月」は陸上自衛隊によるクーデターの話。九州から寝台列車に大挙として乗り込み、途中この車両を乗っ取る。これらの映画は最終的には国家・警察権力が勝利し、犯人達の計画は叶わず逮捕、拘束される。予定調和のストーリーであるが、テレビの刑事ドラマとは比較にならないほどの迫力があった。

 昨年の9月11日以来、全世界的にテロや戦争に対する反対ムードは続いているはず。しかし、勧善懲悪の構図ながら当事国のはずのハリウッドの映画ではテロを扱ったものや派手な爆破シーンなどが出てくる映画が引き続き作られている。確かにあの事件直後、放映延期になったものもあったが、さっきも対テロを扱った映画の宣伝をテレビで流していた。このような映画は戦争を早期に終了させる手段だったと原子爆弾を肯定するアメリカの一貫したポリシーから派生したものの一つであろう。

 さすがに「太陽を盗んだ男」も「新幹線大爆破」も「皇帝のいない八月」も最近はテレビで放送されることがない。この映画を作った人々はこの映画を通じて世に何を訴えたかったのだろうか?。最後に悪はやられる、ではなく、国家権力の脆さを示すことがこの映画のメッセージだったのか?。

 ところで、「太陽を盗んだ男」の結末は前述の2作品とは大きく異なる。沢田研二演じる中学校の理科教師が原子力発電所からプルトニウムを盗み出す。そして、それを材料に原子爆弾を作り、原子爆弾を保有していることで政府にゆすりを掛ける。迎え撃つ刑事に扮するは菅原文太。これまたとてつもない規模のテロ映画である。最後のシーンでは原子爆弾は仕掛けられたまま、カチカチと時を刻む時計の音がし、画面が暗転するとともに、爆発音を上げ、映画は終わる。こんなショッキングなエンディングを迎える映画を私は他に知らない。

 57回目の広島の熱き夜に記す。

(秀)


第817話 〜2002/8/8〜

■クイズ番組の変遷(前編)

 かつては視聴者参加形式のクイズ番組が数多く放送されていた。基本線が問題への受け答えであることはいずれにも共通していたが、正解を答えたことで、次の問題の選択権が与えられたり(「クイズグランプリ」)、陣取りを行ったり(「アタック25」)、単にポイントを表示するだけなのにわざわざ乗っているゴンドラが上昇していく(「アップダウンクイズ」)などの工夫をしていた。そしてその企画やスケール、質の面などから総合的に判断して、究極のクイズスタイルが「アメリカ横断ウルトラクイズ」だったのは明らかだろう。

 それからしばらくはどういうわけか視聴者参加形式の番組が一掃され、クイズ番組は冬の時代を迎える。そして新たに現れたのが芸能人を回答者として迎え、VTRを見せて出題するという趣向のものだった。ここで、放送時間もゴールデンタイムに移行し、時間もこれまでの視聴者参加もの30分に対し、1時間ものとなる。海外取材や動物ものが中心で、今もこのスタイルは続いている。いくつか例を挙げてみよう。「なるほどザ・ワールド」、「世界まるごとハウマッチ」、「クイズ 世界はSHOW by SHOW by」、「どうぶつ奇想天外」、「世界ウルルン滞在記」 、「運命のダダダダーン」...。いっぱいあって、思い出せないものや見ていなかったものも結構ありそうだ。クイズの形式を取らなくても、単にVTRを見せるだけで番組を作ってしまうといった短絡的な悪しきスタイルもこの頃から現れたと思われる。

 ただ、このVTRクイズの場合、クイズとしての質には大いに疑問がある。知恵・知識としてほとんど役に立たず、その場限りのものでしかない。外国でのある個人(それもまったくの素人)の行動や局地的な風習や文化を出題して何が面白いのだろうか?。「なるほどザ・ワールド」の最後の問題、「恋人当てクイズ」なんかはクイズじゃないだろう。クイズの勝敗はよそに、単なる情報番組として見るのが正しいのかもしれない。クイズとしてまともだったのは、「ヒントでピント」ぐらいだったかな?。

 その一方で、視聴者参加形式のクイズは「カルトQ」や「TVチャンピョン」のように専門化し、奥が深くなっていく。かつてのテレビを見ながら一緒に回答することを楽しみとしていたものから、回答者のすごさを見てうなずくスタイルがこれらの形式を支えていた。

<後編へ続く>

(秀)


第818話 〜2002/8/9〜

■クイズ番組の変遷(後編)

 かくして一時期、出題内容が異様に高度化していったが、それもあまり長くは続かなかった。そんな中、「テレビチャンピオン」は巧みにそのスタイルの切替えに成功し、かつてのクイズ形式による知識偏重型から実技重視型になった。一方、「カルトQ」は形を変えることなく、滅んでしまう。

 それからしばらくはクイズ番組のほとんどがテレビの番組欄から消えた時期がある。しかし、そんな状況があるときを境に一転した。法律の改正でこれまで100万円だったクイズ番組等の賞金の上限が1,000万円まで拡大されたときだ。ここで「クイズグランプリ」が新装復活し、「クイズ$ミリオネア」が参入。それと新しいところでは、「ウィーケストリンク☆一人勝ちの法則」が登場した。

 「ウィーケストリンク☆一人勝ちの法則」には馴染みのない人も多いだろう。イギリスで放送されている番組の日本語版だ。司会は伊東四朗。全体が制限時間で区切られた7つのピリオドで構成されている。それぞれの問題に対する回答権は一人ずつ順番にローテーションで移っていき、その問題に回答出来るのは一人しかいない。最初は8人の解答者で始まるが、各ピリオドが終了する毎に一人ずつ脱落していき、最後に一人だけが残る。賞金は各ラウンド毎に貯えられた金額だが、番組のタイトル通り、最後に残ったものだけがこの賞金を独り占めする。

 この脱落していく人をどうやって決めるかと言うと、クイズの成績ではなく、残っている解答者の投票で決まる(最後の一人は成績で決まるが)。要は後々に驚異となる人が狙われやすい。その結果、極端な話、決勝ピリオドがワーストの2人で、ブービーの方が賞金独り占めとなる。そのせいか、全体を通じて問題の難易度のレベルは極めて低い。ただし、賞金総額は全体の成績で決まるので、正答率が極端に悪い回答者も狙われる場合がある。このように実力の優劣よりも、単に嫌な奴を切り捨てていくというやり方は道徳的な面で問題があると思う。例えそのピリオドで脱落しなくても自分を脱落者として投票した相手が分かるわけだから、恨みも出てこよう。

 そして、最近のクイズ番組の頂点は「クイズ$ミリオネア」であろう。最高金額の1,000万円は一般的には魅力である。しかし、私はこの番組も許せない。最後あたりの問題は別として、100万円くらいまでの問題というのは総じて簡単すぎる。高望みをせず、あっさりこのあたりでリタイヤしての100万円狙いなら獲得率も高いと思う。けど、それでは会場の観客や視聴者が許してはくれないはず。ついでにみのも。答えが分かりきっているのに、「ファイナルアンサー?」と聞いた後の不安にさせるような顔が嫌だ。また、眉間にしわを寄せたまま、大映しでCMに流れるところも嫌だ。きっとその直後に流れるCMの高感度はいつもより幾分低下していると思う。

[今日のまとめ]

  • 最近の高額懸賞クイズ番組はイギリスの番組の日本語版でしかない。
  • これらは問題の難易度が低い。
  • クイズ自体の質が悪い分、射幸心への依存度が極めて高い。
  • こんなクイズ番組たちは邪道だ。
  • ついでにみのも許せない。(伊東四朗は許す)

    (秀)


    第819話 〜2002/8/12〜

    ■サザエさんとのじゃんけん

     ずっと長い間、毎週日曜日のササエさんのエンディングは「んが、うう」と決まっていた。「来週もまた見てくださいねー」と言った後、彼女は手に持った紙袋からお菓子を取り出し、それを空中に投げ上げ、口で受けたところを喉にそのお菓子をつかえてしまう。そこで、「んが、うう」である。あれが何のお菓子だったのか?、ずいぶん気になった覚えがある。

     お菓子を投げて食べるやり方に「子供が真似をする」というクレームがついたらしい。そう言えば、仮面ライダーの真似をして大ケガをする子供が出たらしく、それから真似をしないように、番組で注意を呼びかけるようになった。西城秀樹が「ブーツを脱いで朝食を」のイントロで火のついたライターをかざすようなポーズの振り付けがあったが、それを真似して子供が火事を起こす事件が起きた。もちろん即座にこの曲のイントロの振り付けは改められた。

     サザエさんもさすがにクレームには勝てず、このスタイルを変更し、視聴者にじゃんけんを挑んでくるようになった。「よおーし、受けて立とう!」。画面に向かって拳を出すような真似まではしなくとも、心の中でグー、チョキ、パーのいずれかを唱えてたりする。勝ったからといって、何も得することはない。ただあいこだと、決着が翌週に持ち越されて気持ち悪い。そして負けてしまうと、その一週間、良いことがないような気がして悔しい。翌週へのリベンジを誓うも、この時間は風呂に入っている事が多い。リベンジが果たせないままということになるが、前回の勝ち負けなんか、「こち亀」を見終わった頃には忘れてしまっているもんだ。

    (秀)


    第820話 〜2002/8/13〜

    ■「笑っていいとも!」に引導を

     唐突だが、「笑っていいとも!」はそろそろ終わっていいのではなかろうか?。確かに始まった当初は面白かった。「テレフォンショッキング」(今となってはこのネーミングすら恥ずかしいねー)にしても、芸能人の誰と誰が(意外に)仲良しだというのが分かった(実はそう思わせられてるだけだったけど)し、本番中に次のゲスト候補者に電話による出演交渉をして(これもヤラセだったり)、「来てくれるかな?」の問いにその候補者がうまく答えられないなどの生放送としてのリアリティが感じられた。誰だったか、本番放送までに到着せず、コーナーの順番を入れ替えて放送していた回もあったりした。

     ところがある日このコーナーのローテーションも本人同士の仲の良さなんかを無視してゲスト達のプロモーションの場として利用され、あらかじめ次のゲストもセッティングされていることと分かった頃から急にこのコーナーがつまらなくなった。名札つきの大きな祝いの花が届き、ゲストもポスターや土産を持ってやってくる。会話のフリも自然とそのポスターやプロモーションの方に流れている。かつて北方謙三が出演した際に、出身県の知事から花が届いていた。知事からの花など前代未聞。しかもその頃は電報が届くことはままあったが、花が届くことはまだ珍しい頃。同郷人として見てる方が恥ずかしかった。

     正直言ってもはや面白くない。出演者が相手にしているのは会場に来ている観客のみ、そのリアクションだけを楽しみ、それを電波に乗せて流しているだけ。視聴者はそれを一方的に見せられている感じしかしない。放送などせず、アルタを劇場として勝手にそこだけで盛り上がれば良い、とさえ思えてくる。素人いじりの構図も手垢にまみれてしまっている。もはや、やめ時を逸してしまった感が否めない。これは紅白歌合戦も一緒。出演者もそろそろ気づけ。タモリある間、続けざるを得ないところまで来てしまったこの番組に誰か引導を渡してくれ。

    (秀)


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