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第101話 〜1999/9/9〜

■オオカミ少年

 「ババンババンボン、バンボバンバボン」。メロディ付きですらすらと読めた(歌えた)人は私より上の年代の人だろう。アニメ「狼少年ケン」の歌の歌い出しである。

 「昨日、最終回と言っておきながら」と、お考えの読者に申し上げたい。「最終回」というのは第100話のコラムタイトルだったのだ。第100話は「最終回」であると告知したが、コラムの執筆を終わるつもりなどさらさらなかった。最初のうちはリニューアルでもしようと、「秀コラム」は最終回と告知をした。「新・秀コラム」、「帰って来た秀コラム」、「グレート秀コラム」、「..V3」、「...X」、「...アマゾン」、「もっと秀コラム」、「踊る秀コラム」と色々考えたが、どうもしっくりこない。考えた挙げ句、「最終回」をコラムタイトルとすることでごまかすことにした。

 ところで、童話に出て来るオオカミというのは悪の象徴である。「赤ずきん」に「3匹のこぶた」、「7匹の子やぎ」でも。けど、いつも計画は未遂に終わっていたり、復讐を受けたりしている。一方、「オオカミ少年」であるが、この話では狼の悪は不問にふされ、少年が一方的に悪いように表現されている。被害者でありながら同情されることもなく、悪い少年の例として何百年(?)も語られているのである。しかも悪の象徴である、狼が冠となって呼ばれているのだ。きっと事件が起きた時には未成年であっただろうに。

 20年程前、日本テレビの木曜スペシャルでUFOのネタを担当していたディレクターに矢追純一という人がいた。彼は毎回「UFOが来たぞ!UFOが来たぞ!」と騒ぎ立て、その後「オオカミ中年・矢追」と呼ばれるに至った。しばらく消息が分からないが、UFOに連れて行かれたわけではないだろう。

 「秀コラム」は本になるまで続く。

(秀)


第102話 〜1999/9/10〜

■不自然な電話

 最近はドラマや映画で携帯電話を使用するシーンがかなり増えたけど、演出のため、かなり不自然なシーンが多い。まずは着信するケース。いきなり相手も確かめずに出てしまうが、実際は発信者が誰であるか確認しはしないだろうか。それで、声質が変わったり、電話に出た最初の言葉を考えそうなもんだ。それに、もっと多くの確率で、面白い着メロが流れたりしても良さそうであるが、これもない。これは使用している携帯が自前でないからであろう。いや、ドラマでの呼び出し音の多くはアフレコのような気がする。好みの着メロを入れるでもなく、ストラップを付け替えるでもなく、増してやプリクラを貼るでもなく(たまに演出上、小道具として貼っている場合もあったりするが)、生っぽさが欠けている。通話状態がいつもクリアな状態であるはずもない。途中で切れたり、聞き返したり、「もし、もーし」や「あれ?切れちゃった」というのをたまには見てみたい。留守電のメッセージを聞くシーンはたまにあったりするが、録音しているシーンにはお目にかかれない。

 呼出音が鳴る前に、振動で電話に出ることもない。しかし、これはドラマを作る側からすればやむを得ないことであろう。ドラマの途中で、突然ポケットを探りだし、電話に出て喋りだすシーンというのは、やはり不気味である。もちろん、長電話もタブーである。また、相手の喋ったことをいちいち声を出して、周りの人や視聴者に電話の内容を伝えなければならないのもしようがない。「捜査一課。何!殺人!」。出演者一斉に手を止め、ボスの机に集まる、そんなシーンは刑事ドラマの定石であるが、携帯に限らず、電話がドラマや映画の小道具として登場してから、電話の内容を声に出すのは決りごとになっている。

 携帯電話の登場で原作や脚本の書き方にも少なからず影響が出ていることだろう。「君の名は」のような、すれ違いドラマはこれから後の時代を舞台とするのであれば、2度と生まれないだろう。「マルサの女」のクライマックスシーン。内偵を終え、強制捜査に踏み込む瞬間、数ヶ所を同時着手するために執行官が肩から提げた移動電話で連絡を取り合うところがある。百科事典1冊分ぐらいの大きさに幅広のストラップを付けたようなスタイルである。わずか10年ちょっと前の話であるが、結果として強制捜査の重厚さを伝える上で、大掛かりな移動電話の雰囲気は良かったと思う。携帯電話ではちょっと軽そうだし、ポケベルだったらコントになってしまいそうだ。

(秀)


第103話 〜1999/9/13〜

■脚本

 ドラマや映画の脚本の良し悪しは誰にどのような言葉を話させるかも重要であるが、登場人物をどのようなタイミングで登場させ、彼らを如何に引き合わせるかも重要なポイントである。登場する際に視聴者あるいは共演者に与えるキャラクターのインパクトがそのままその後のストーリー展開に引き継がれるわけである。しかし、一見良い人が実は犯罪者であったりする作りも意図的には行われる。

 映画や舞台芝居のような場合は短期間にストーリーを展開し、解決させなければならないため、あまりこの部分に時間を掛けることはできない。そこで、舞台設定としては多くの人が集まり、偶然出会っても不自然でないところが選ばれる。そこで如何に見ず知らずの人間を出会わせるかが重要である。しかもそれはできるだけ偶然に、そのときにその場所にいなければ一生出会うことがなかったぐらいが良い。多少現実味のある、非日常。この加減も作品へのスパイスだ。

 既に最初から顔見知りしか登場しないドラマではストーリーに意外性を設定することがきわめて難しくなってしまう。一般的に映画の続編が前作ほど面白くないのはこのせいだろう。登場人物のキャラクターが分かってしまうとやはり新鮮味が足りない。あれほど続編を出し続け、ワンパターンと言われ続けた寅さんや水戸黄門も、旅をモチーフに毎回新たな人との出会いがあったからこそ持続できたと思う。

 物語の最初と最後を比べてみて、その落差の大きい作品が最近は非常に多い。面白さの一つの要素ではあるが、リアル感に欠け、どこか「ついていけない」と思わせたりする。さて、3クール目のドラマもそろそろ佳境。キャスティングの話題ばかり先行するような作品も無く、結構地味なクールであったが、しっかりした作りの作品も幾つかあった。「彼女たちの時代」は登場人物も設定も非常にリアルである。次回その中身にふれてみよう。

(秀)


第104話 〜1999/9/14〜

■彼女たちの時代

 彼女達はまさに遅れて来た世代である。彼女達は26歳。女子高生、女子大生ブームには届かず、いざその年代となると下の世代がもてはやされ、いざ就職となると氷河期。仕事では中堅所としての期待を受けているものの、それは会社のご都合主義でしかない。権限がないわりには責任ばかり追求されることに彼女達は辟易している。「私は何でこんなことをしているんだろう」と。

 彼女達を演じるのは、深津絵里、水野美紀、中山忍の3人である。彼女達は日常で感じる不満から自分の存在意義に疑問を抱き、絶えず「自分探し」を行っている。それぞれの置かれている状況は違っているものの、日常で満たされない不満の原因が「会社で認められていない」という部分が共通していて、深美(深津)が、ふと立ち寄ったカルチャースクールで3人は出会う。全体的に非常にリアルな作りになっているが、自分探しでいきなりカルチャースクールという発想には幾ばくかの飛躍を感じる。彼女達に他に友達がいないという共通点も一寸変である。

 彼女達の中心は恋よりは仕事に重きが置かれている。多くのドラマが恋愛を、しかもそのほとんどが三角関係や四角関係のバリエーションでしかないものを中心に描いているのに過ぎないということに気付けば、かなり新鮮な構成と思えるかもしれない。後半恋愛(しかも不倫)に重きを置いた展開に移行するが、けっしてそれが全てという構成ではない。

 「自分探し」。どことなく哲学的な匂いのする耳当たりの良い言葉である。このドラマのメインテーマはまさしくそれである。結局彼女達が自分を探し出せるのかは来週(9/22)の最終回を待たねばならないが、世間一般でもそう思っている人が随分多いことだろう。そんなことを考えもしない人は日々の生活に満足しているか、忙しすぎてそんなことを考えている暇もない人だろう。あなたはどのケースだろうか。自分の周りの26歳(前後)の彼女達の顔が浮かんだ。

(秀)

from.萬ちゃん


第105話 〜1999/9/16〜

■PRARA

 原宿の「AC'QUA(アクア)」という美容室のカリスマ美容師(この前このコラムに出て来た人とは別人)の一人が、カリスマどころか実は美容師の免許すら持っていなかったことが明らかになった。「忙しくて国家試験を受ける暇がなかった」というのが彼の言い分というか言い訳である。こんなことが今時分明らかになったというのは同業や身近な人間から漏れたことだろう。マスコミはさも世間全体が被害者であるかのような報道を始めている。

 今回のこの事件に対して、大きく2つの反応があるだろう。1つは「無免許とはとんでもない奴だ」、「騙された」という、怒りあるいは批判的な意見。そしてもう一方は「無免許でも本当にうまければ良いんじゃない」という容認派。私はいずれでも構わないのだが、後者の容認派の人々に問いたい。「あなたが持っているブランドのバッグがもし偽物だったらどうする?」と。「PRADA」の三角プレートを良く見て欲しい。本当に「PRADA」だろうか。もし「PRARA」と書かれたバッグに4万も5万もつぎ込んでいるとしたら。

 カリスマも1つのブランドでしかない。偽物のブランドをカリスマと信じ込んでいたわけだ。しかも大枚をはたいて。それでも無免許美容師をカリスマとして「無免許でも本当にうまければ良いんじゃない」と認める勇気があるのなら、ブランドに関わらず、同じようなデザインで、同じような素材で、同じような製法であれば、同じ金を払ってそのバッグやアクセサリーを買い求めるだろうか?「それとこれ(無免許カリスマとブランド品)とは話が別」という反論もあるだろうが、根本は同じ様な気がする。

 「PRARA」のバッグは松戸駅のコンコースで3,000円程度で実際に売られていた。遠目に見れば「PRADA」のそれと見分けがつかない。推定原価約50円のあの三角のプレートに4万も5万も払っているわけだ。

(秀)

from.Sahara


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