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第111話 〜1999/9/27〜

■夢の説教マシーン

 読者(女性)から私がその人の夢に現れたというメールをいただいた。ただその内容というのは、その女性の会社にわざわざ私が現れ、そこの社員の行動を逐一観察して、事細かなことまでにダメ出しをしているというものであった。これではまるで説教マシーンではないか。そのメールは「今朝起きたときに倦怠感が・・・」と締められていた。彼女には迷惑な話であるが、私が意図的に彼女の夢に忍びこんだわけではなく、詫びるべきかどうか途方に暮れてしまった。別に彼女に説教した覚えなど無いが、夢に見てしまうということは彼女の深層心理の中で私は説教マシーンと思われているのだろう。

 私のかつての上司は飲んだときに説教マシーンになる確率が高い人だった。最初はいろいろと持ち上げてくれるが、突然に「けどな、...」なんて切り出しで始まる。となるともうただひたすらに聞くに徹するしかない。機嫌を取ろうとして酌などして酒が進むとマシーンはますます加速して、ペシペシと叩かれたりもする。

 ある脚本家のエッセイで、説教する人のプロファイルらしいことが書かれていた。説教する人というのは年齢に関係なく、ものごとに関するカテゴリー分けができていることが重要らしい。しかし、酒の席のせいか、説教マシーンの説教があまり論理的であったためしがない。論理的に袋小路に行き当たることで、マシーンが止まり、解放されることもある。むしろ、説教マシーンはカテゴリー分けが中途半端な人の方が多いような気がする。説教マシーン同士の会話というものに出くわすこともあるが、どうでも良いことを盛んに言い合っていたりする。逆にしらふの説教マシーンというのがもっとたちが悪そうだ。

 冒頭の読者には途方に暮れたあげく、「今夜も夢に出てやる〜」と返信しておいたが、どうやらそれ以来夢には出てこないらしい。

(秀)

※本コラムのオリジナルタイトルは「説教マシーン」でしたが、改題しました。


第112話 〜1999/9/28〜

■繰り返しへの不満

 先日、ブースカの復活を喜んだが、そう手放しでは喜んではいられない気がして来た。ロボコンの復活も金八先生の復活もそうである。俺たちの旅もきっとそうだろう。かつて20年やそれ以上前に流行ったものがリバイバルされるということは、その当時リアルタイムでこれらを楽しんだ人々、おそらく30代の後半や40代にかかったところの人だろうが、この年代の人々がメディアの中心となって働いている証拠である。それなりに影響力や決定力を持って来た証拠である。その結果がこのリバイバルの波である。しかも、ストーリーや設定においても焼き直しにすぎないものばかりである。何たる体たらくぶり。オリジナリティのかけらも感じられない。もっと早く、ウルトラマンが復活した時にこの傾向に気が付くべきであった。そして、ゴジラも帰って来る。

 今の社会の中心にいるのは紛れもなく、団塊の世代である。ただ、メディアの中心はそれよりもやや若い世代であろう。彼らは遅れて来た世代と言われた。いわゆる安保も全共闘も何かも終わった後の世代である。グループサウンズもエレキブームも。上からの「俺等の時は...」という話を散々聞かされた世代である。それ以前の文学や映画、ドラマには政治的な背景をベースにしたものが多かったが、70年代の中頃からその色彩も無くなってしまった。社会性をなくし、娯楽一辺倒のメディアがあふれて来た。そんな時期に青年期や幼少期を送った人々がメディアの中心となり、そしてリバイバルに終始しているのである。もっと遅れて来た世代の自分が見て来たことのようにこの時代を語るのはおかしいのでこのぐらいにしておこう。もちろん世代論がリバイバルに走る答でもなさそうだ。

 ゴジラは破壊することを象徴とした怪獣である。果たしてこれから何を壊そうというのか。相変わらず、壊すべきものはいっぱいあるが、リバイバルに安住する体質をまず壊して欲しい。

(秀)


第113話 〜1999/9/29〜

■「欲しい」と「買いたい」

 買いたいものは相変わらず色々あるが、思うように買えないのは何もお金が足りないからだけではない。色々と心理的なブレーキがかかっている。あれもこれもとなかなか優先順位を付けきれないことがその1つのようだ。うまく均衡が保たれているわけだ。もしもその中から何かを手に入れてしまうとそれに味をしめて、次々と食指を伸ばすであろうことは明らかである。それと、例え欲しいものがあっても値ゴロ感になびかないとダメである。

 最近、ブルガリのアルミニウムという腕時計が欲しい。20万円ぐらいのものである。ただ、欲しいのはデザインが気に入ったがためであり、別にブルガリである必要はない。いっそのことシチズンやセイコーで、もっと安い価格で同じ様なデザインのものがあれば迷わず買ったであろうが、デザインだけに20万円まで出しては買う気にならない。

 それともう1つ欲しい物に、ホンダS800という車がある。もう30年以上前、自分が生まれた頃の車である。文字通り800ccで二人乗りの小さなオープンカーである。別に何等かの思い出があるわけではないが欲しい。けど、さすがにコンディションの良いものは少なく、200万円では買えないだろう。色々と探し回って、200万円出してまでは欲しいとは思わない。思ったより故障が多かったり、「(やっぱり)走らねぇー」と思うのが目に見えている。

 「買いたいと思わなければ、本当に欲しいということでない」と言う人がいるかもしれないが、表面的には「欲しい」という言葉でまとめられている。しかし、実際には「欲しい」と「買う」には大きな隔たりがある。買い物中毒になると買う度に「また買ってしまった」などという嫌悪感が襲ってくるらしく、その恐怖から逃れるに、また新たな買い物に走るらしい。「宝くじでも当たったら...」なんてことをしばしば耳にするが、例え宝くじに当たっても、「何でこんなもん、買ったんだろう」と後悔する感じは残ってしまうだろう。

 ジョンレノンが子供におもちゃを店ごと買ってあげたことがあるらしい。結果、子供は金や物では満たされないむなしさを学んだらしい。もちろん自分が同じ様なまねはできない。そんな金ももちろん無いが、そんなことに大枚をはたいたら、その浪費に対する嫌悪感から立ち直ることができそうに無いからである。もちろん、私がお金を貯め込んでいるようなことは毛頭ない。

(秀)

←ブルガリ アルミニウム


第114話 〜1999/9/30〜

■不正競争??

 第105話「PRARA」に対し、読者よりもらった感想の続報として、ソーテックのe-one問題に関する意見が書かれていた。スケルトンのWindowsPCを販売しているソーテックに対し、iMacとデザインが似ていることを理由にアップルコンピュータがこのe-oneの販売中止を求めたものである。注意を要するのはそもそもはデザインが似ていることが発端であるが、デザインが盗用されたとして訴えたのではなく、「不正競争防止法」違反として訴えたのである。「本当はiMacを買おうと思った客さんが店で間違ってe-oneを買うかもしれない」ということである。東京地方裁判所はこの訴え対し、アップル社の主張を受け入れ、本裁判と同時に出されていた、販売中止の仮処分にGOの決断を出した。

 不正競争防止というのは偽ブランド商品などへの対抗手段として、しばしば用いられる。しかし、iMacとe-oneを間違えるような人がいるだろうか?。もしそのような人がいるとすれば、その人はパソコンなんか使いこなせないだろう。アップルももっと正直になるべきだ。「間違って買うお客がいる」と言うのではなく、「デザインだけで(本当はWindowsPCが良いんだけど)iMacを買ってくれてた人がそちらに流れてしまう」と。今回の仮処分の理由の中で、「両社に資本関係があるような誤解を与える」というのもあった。それなら、色を合わせたプリンタやスピーカーを作っているほうがもっと誤解されそうだ。

 ソーテックもしたたかで、同じ型(CPUのクロックはUP)のPCを色を変えて販売を再開するらしい。オールシルバーらしいが、やはりe-oneがそこそこ売れたのはあのカラーリングによるものだと改めて実感できる。いっそのことスイカ柄のパソコンだったら面白かったのに。もちろん壁紙は赤にタネの黒点があるやつね。

(秀)


第115話 〜1999/10/1〜

■上げ底

 最近のカップラーメンと言えば、色々と地域の名前が付いたラーメンが花盛りである。特に和歌山ラーメンがブームだ。しかし、その一方で短期間で消え去る商品が多いのも事実である。元祖カップヌードルは発売からしばらくのタイミングで、3製品が出揃い、「カップヌードル3兄弟」というテレビCMがうたれていた。長男はオリジナルのヌードル。次男はカレー。三男は天そばであった。自分が三男だったこともあり、中でも天そばを好んで食べていた記憶がある。天そばというよりは、たぬきそばと言うのが的を得ていたと思う。しかし、天そばがあったことなど知らない人のほうが多いように、しばらく後にこの天そばは市場から消えてしまった。

 カップヌードルは発売時期に100円という、他の袋麺製品の約2倍というかなり強気の値段で登場した。日曜日の午後に放送される「ヤング・オー・オー」のスポンサーが日清食品で、会場の入場者にカップヌードル、しかも3個入りで取っ手付きパッケージのものが、プレゼントされていた。テレビの向こうのカップヌードルは未だ食せぬ夢の食べ物だった。噂に聞いた黄色いお湯の出る自動販売機にはお目にかかれなかったが、何とか初めてカップヌードルを食する瞬間が来た。確か小学1年生頃だったと思う。最初の感想は「チキンラーメンと同じ味」だった。

 カップラーメンの凄さはまさにそのカップにある。そのカップには3つの機能があり、まず第1はパッケージとしての機能。2つ目は調理器として。そして、3つ目は食器としての機能である。別にそこまで意識して開発したわけではないだろうが、袋麺と大きく異なるところだ。それと下に行くほど狭くなるカップに麺が上げ底で入れられているものミソである。上げ底だと何だか損をした様な気がするかもしれないが、あの部分がないと膨張した麺が器からはみ出したり、混ぜられなくなってしまう。柔らかくなった麺が次第に底に落ちて行く具合が微妙らしい。その様子が気になる人は、限定でスケルトンカップのカップヌードルが販売されているので、眺めてみると良いだろう。

(秀)

※日清食品の社史によると、カップヌードルの発売は昭和46年で、関西圏でも発売したのは翌年の様です。私が初めて食したのはさらに翌年の48年ということになります。
また、社史によるとカレーよりも天そばが先に販売されていました。

カップヌードルのカットモデルへのリンク(日清食品)
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