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第1246話 〜2005/11/30〜

■広島女児殺害事件にふれて

 広島の女児殺害死体遺棄事件の犯人(容疑者)が逮捕された。小学一年生の女児が殺され、段ボール箱に詰められて発見された事件である。とりあえずこれで世間の関心事からはふるい落とされることになろう。昨年の奈良での女児殺害事件のときもそう、それ以外の事件でも、押しなべてこの手の事件は犯人が逮捕されたところで犠牲者が戻ってくるわけでなく、溜飲は下がらないままで後味が悪い。

 急転直下の逮捕劇の裏で、やはり不審者の洗い出しが行われて、この犯人もマークされたたことだろう。「怪しい外国人が声を掛けてきた」などといった情報が犯人逮捕への手掛かりにもなっている。予兆があったというわけだ。この手の話は他の事件でもよく聞く。ただ、どのレベルのものを重大事件への予兆として警戒すべきか難しい。幼い子を持つ親として、そしてPTAの仕事に関与した者として、「どうすれば子供たちを守れるものか」と悩ましい。

 量刑の観点から見た場合、人一人を殺したところで死刑になる例は少ない。一方、三人以上を殺した場合はほぼ死刑というのが相場のようだ。しかし、被害者が年少で無抵抗な場合はこのような相場には縛られず、一人の殺害においても極刑を選択すべきだと思う。それが果たして抑止力になり得るのかどうかは分からないが、いずれ出てくる無期懲役刑では収まりがつかない。死刑制度廃止などとんでもない話だ。

(秀)


第1247話 〜2005/12/1〜

■あれから10年

 うっかりしていたら、あれから10年の日が過ぎてしまっていた。1995年11月23日。Windows95の発売日である。発売日の前日となる22日は大阪への出張があり、東京に戻ってきて、家には帰らずそのまま、夜の秋葉原に繰り出した。23時半過ぎに到着したかと思うが、辺りは既にお祭り騒ぎの形相であった。発売日の0時からの発売を行うため、それぞれの店の前には行列も出来ていたし、店員も大いに客を呼び込み、秋葉原の夜がこれほどの騒ぎとなったことは前にも後にもこの日を以って他はなかったはず。人ごみの具合といい、ちょっとした初詣の感じだった。

 マイクロソフトの宣伝は言うにおよばず、それ以上にパソコンメーカー各社がこれに合わせてWindows95搭載のパソコンを販売するとあって、これらがコンパニオンなどを繰り出し、華やかさに色を添えていた。そんな中私は、ラオックスコンピュータ館の列にまぎれ、12時のカウントダウンとともに店内に流れ込んだ。1階のフロアは当時書籍のフロアだったと思うが、そこに臨時にWindows95のパッケージが大量に平積みされていた。そして、ここでの私の姿の某パソコン雑誌の口絵に写真として小さく載った。このときはCD-ROM版の他にFD版というのもかなり多かったし、そもそもがNEC用とDOS/V用とにパッケージが分かれていた。

 Windows95は非常に画期的なOSだった。それまでのWindowsのバージョンのものと比べて飛躍的に使いやすくなっていたし、各種設定が非常に簡単になっていた。特にネットワークの設定は特筆に値する。それまではTCP/IPのドライバは別に買わなければいけなかったし、設定も非常に面倒くさかった。そもそも用語も分からなかったし。Windows95がなかったらインターネットの普及は大きく遅れていたに違いない。パソコンの歴史を考えた場合は私はこのWindows95の前後で大きく変化したと見ている。まさにエポックメイキングなOSと言っても過言ではない。感謝。感謝。10年なんてあっと言う間だった。

(秀)


第1248話 〜2005/12/6〜

■三丁目の夕日

 映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を(公開初日に)見た。この映画はすごい。何が?って、CGの合成技術がである。走っている都電、SL、上野駅、町の背景。日本映画もこの水準までに来たか、と感心してしまう。出演者のギャラよりもセットの製作費やCG処理に要した金額の方が高いのではないかと思う。

 舞台は昭和33年の東京タワー近くの夕日町三丁目という架空の町になっている。原作の漫画ではどうだか分からないが、この映画では東京タワーのすぐそばということで、港区愛宕というロケーションになっている。町並みは非常にリアルで、一瞬映るかどうか、あるいは映るはずもないところまでにもこだわってその時代の風景を再現したことが映画のメイキングで紹介されていた。理髪店内の壁には最新のヘアスタイルというポスターが貼られていたし、荒物屋には粉末のシャンプーや殺虫剤の噴霧器が並んでいるのだが、それはメイキングで語られているから分かるわけで、映画の中ではそこまでは分からない。けどそこまでこだわっている。

 昭和33年というのは終戦からしばらく時が経ち、高度経済成長前夜といったところか。貧しかったけど夢があった時期で、その象徴が建設途中の東京タワーとして表現されている。東京タワーはこの年の12月23日に完成している。ちなみにスバル360が発売され、長島茂雄が巨人軍に入団したものこの年のことだ。子供の遊びとしてはフラフープが流行している。それに、映画の中にはミゼットに白黒テレビに冷蔵庫が時代を代表するアイテムとして登場している。未体験だけど懐かしさがある。それはそれらが約10年残って、物心ついたころにも身の回りに残っていたからだろう。

 この映画は日本アカデミー賞をはじめ、映画賞で大いに評価されると思う。私はこの原作漫画が大好きでコンビニの廉価本は全て持っている。

(秀)


第1249話 〜2005/12/12〜

■罪と罰

 下校途中の女児殺害事件が2件続いた後に今度は学習塾の講師が児童を殺害するといった痛ましい事件が起きた。このような不幸な事件を予防できなかったかといろいろと思いを巡らしたところで、やはり犯人が悪いということをはっきりしなくてはならない。広島の女児殺害事件では前歴のある者を何故入国させたのかと言われようとも、それが分かっていたら、入国させなかったはず。

 今回の学習塾の件でも犯人が傷害事件の前歴があって、学習塾に雇用されたときには停学中であったと報道されようとも、学習塾はまさかそんな前歴があったとは予想もしていない。「(停学中や障害事件の前歴を)分かっていたら雇っていない」と塾側が答えている通りである。それでも塾側の責任が追及されることだろう。管理責任云々言われようとも今回の犯行さえなければ何ら問題がなかったわけで、塾にとっては災難である。おまけに経営的にも致命的なダメージを受けるであろうし。アルバイト講師というスタイルに多少の疑問を抱くが、他においては正常に機能していたわけで、やはり個人の問題として処理すべきだ。

 このような事件が起きるたびに社会やシステムが悪いという声が挙がるが、それは無責任な者たちの暴言でしかない。社会が悪いとか銃が悪いとかではなく、犯行を犯した奴が悪いんだということを徹底しなければならない。事件を防ぐためのシステムを作っていくことはまた別の次元での話で、そのシステムが欠如していたことや不完全であったことで犯人に罪が軽くなるようなことではない。塾に通わせた親が悪いのではなく、そのような学歴社会を生み出した社会が悪いでもなく、ただこの犯人が悪い。何でもかんでも社会のせいにするな!。

 今回この犯人は法学部で、犯罪と罰に関するゼミに在籍してしたらしい。計画的な犯行を起こす上で自分がこれから起こすことの罰についても考えたことだろう。私の予想であるが、最大でも無期懲役。実際は服役して十余年で出所となるだろう。それでも亡くなった少女は帰ってこない。人を殺せば必ず死刑という厳罰であったとしたら、この学生は思いとどまっていただろうか?。

(秀)


第1250話 〜2005/12/13〜

■大停電の夜に

 話題のこの作品も、行こうと思っていたシネコンでの上映が最終日(他ではまだやっているようだが)とあって、金曜日の夜のレイトショーに車を走らせた。車をかっ飛ばして約10分のところにあるシネコンは最近私のお気に入りである。駐車場はタダだし、劇場内は傾斜がちょうどいい具合についていて、前の人の頭が気になることもない。ついでに20時以降のレイトショーは1,200円というのも嬉しい。

 さて、映画の方だが、主たる登場人物が12人いる。基本的に彼らが2人ずつの設定で話が始まり、その途中で停電に見舞われる。停電とは日常の中の非日常である。もっと街はパニックになって良さそうだが、意外にも平静を保っている。この12人のストーリーが後半に掛けてどう絡んでいくのかを期待させるような前半部分であった。

 停電のときにエレベーターに閉じ込められた2人。出生の秘密を知らされたサラリーマンやそれにまつわる過去を知らされた者。離婚の危機にある夫婦。出所後かつての恋人との再会、彼女の出産。そして主な舞台となるジャズバーのマスターと向かいのキャンドルショップの店員。彼らにはそれぞれの日常があり、非日常の中、偶然と接点を持って出会う。

 気が付いたら映画が終わっていた。面白かったからではなく、結末が不十分な形で終わってしまったのだ。刑事ドラマで言えば、犯人が逮捕されないままエンディングを迎えたようなもの。そもそも12人という登場人物が多すぎたと思う。同時進行のオムニバス映画のような試みかと期待したが、それらの絡みが中途半端で、全く絡んでいないものもあるし、そのストーリーがなくなっても全体の構成には影響のない話もあった。ストーリーが多くなりすぎたために、登場人物のプロフィールの描写も中途半端だった。

 きちんとした終わりのない、ちらかしたままの放置映画と言えよう。続編「大停電の後に」でもなければ、収まりがつかない。結局夜が明け、電気が復活したところで話は終わる。結局この映画は何を言いたかったのか全く分からなかった。

(秀)


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