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さっきから繰り返し、ビデオを見ている。タイトルは「性的ヒーリング」。主演女優は...、いやいや、そんなHなビデオではない。椎名林檎のプロモーションビデオを集めた、セルビデオのタイトルである。「ここでキスして。」などの5本が収録されているが、目的は新曲の「本能」である。ビデオを全シーン見たかったのだ。テレビでは10数秒しか見ることができないので、ビデオを買うことにした。茶髪看護婦がガラスにヒールで蹴りを入れる、スポットCMが流れているアレである。「本能」とはまた、たいそうなタイトルである。その前の曲は「幸福論」、そして「歌舞伎町の女王」という曲も入っている。これらは自らの作詞・作曲であるからよほど何かの思い入れで曲を作っていることだろう。
「本能」を中心に話をしよう。彼女の哲学はなかなか分かりにくい。言葉として理解するよりも雰囲気として共感すれば良いものかもしれないが、聞き取れない言葉もあるので歌詞カードを開いてみる。冒頭から「どうして歴史の上に言葉が生まれたのか」と何とも哲学的である。そしてサビの部分の歌詞は「もっと中迄入ってあたしの衝動を突き動かしてよ」と歌っている。結局のところ、「本能」と茶髪看護婦を結ぶ線は見えて来ない。増してやガラスを割り続ける理由はとうに分からなかった。しかし、あのテレビスポットは強烈だ、CD売上が好調なのもそのスポットの効果であろう。こうして、ビデオを買う奴も現れるわけだし。確かにこのビデオは発売日にもかかわらず、売り切れで入手できない状態が数日あった。
茶髪看護婦の姿を何度か見ていると、妙にリアル感が迫って来る。きっとこんな看護婦さんがそこいらの病院に居そうなのである。そのうち、「松雪泰子に似ているなあ(松雪泰子の看護婦姿って似合うだろうな)」なんても思えて来た。そして、「性的ヒーリング」というタイトルとはうらはらに、サビの「もっと中迄入ってあたしの衝動を突き動かしてよ」という歌詞が頭の中でこだまし、悶々と眠りに落ちて行くのだった。
(秀)
from.さかげん
今年は忠臣蔵イヤーである。特別に今年が討ち入りから何周年というわけではないが、大河ドラマで「元禄繚乱」が放送されるからには忠臣蔵イヤーなのである。そのせいでもないが、関連本が多く出ているのは事実で、本棚を見返してみると、私もこの1年で6冊の忠臣蔵本を読んでいた。ご存知「忠臣蔵」を支える2大ストーリーは「刃傷松の廊下」と「吉良邸への討入り」である。しかし、これだけでは話の全体像は見えてこない。義士達の周辺ばかり見ていても全体は見えてこないのである。それは、元禄がどんな時代であったか、将軍綱吉や老中柳沢吉保がどのような性格で、どのような政策を取っていたかを知る必要がありそうだ。
実際にこれらを解説し始めると本が書けるぐらいの規模になるし、既に世の中には数多くの解説本が出ているため、そちらに譲るとしよう。ここでは最近になって私が気づいたことを紹介しよう。まず、何故「忠臣蔵」と言うのか?、ということについて。忠臣については説明が不要であろう。問題は蔵である。1つ目の理由は内蔵助の「蔵」から取ったというもの。2つ目は忠臣を集めた話でそれを蔵に見立てたというもの。「Packege of 忠臣」ということだろう。これらのダブルミーニングらしい。それと、最近知ったもう1つのこと。芝居で演じられ大ヒットした「仮名手本忠臣蔵」は音読すると「かなでほん...」である。当時は漢字が読めない人が多く、ひらがな書きの本を出したのかな、と思っていたが、読みは「かな」であるが、意味は仮名(かめい)であった。幕府の監視の目を潜り抜けるため、時代設定を鎌倉時代にし、登場人物を別の名前でフィクションを装ったのだ。もちろん、いろはの文字数(「ん」は除く)と47人を掛けたものという意味もある。
それにしても世間には忠臣蔵ファンが多い。私もその1人で12月となるとクリスマスよりも忠臣蔵の方にわくわくしてしまう。シャボン玉ホリデーでもこの季節になると討ち入りのパロディーコントが流れていた(らしい)。ストーリーも知り尽くしている話なのに多くの人々を惹きつけるのはこれ以外に例がないだろう。その点の秘密あたりを考えていくとして、しばらく忠臣蔵話につきあって貰うとしよう。
(秀)
忠臣蔵を見る場合の視点はほとんどの人が、大石内蔵助の立場になっていることだろう。たまには吉良上野介の立場になって見るのも楽しいかもしれない。ストーリーは勧善懲悪の内容であるが、かなりの誇張があり、そもそもの事件が内匠頭の思い込みがあったかもしれない。思いっきり、人の良い吉良上野介と優柔不断な大石内蔵助という設定の芝居も結構面白いかもしれない。大石は最初から吉良に討ち入ろうなどとは思っていなかった(らしい)。ところが、彼の考えたお家復興の策が行き詰まるにつれ、ついに討ち入りを決意する。推進派の押しに色々と弁解をして来たが、万事休すとなった時点で逃げられなくなってしまったような気がする。周りから祭り上げられて引くに引けなくなってしまったのかもしれない。他の義士にしても集団催眠状態に近かったはずだ。今風に言えば殺人カルト集団ということかもしれない。
そして、義士と呼ばれる彼らの行動は本当に正義だったのだろうか。かつては「敵討ち」が公に認められていたのは事実であるが、これは親兄弟に限ったことだった。テレビなどで時代劇となると必ず人が死ぬことになっている。刀を抜かない時代劇など見たことがない。同様に撃ち合いをしない西部劇というのも成り立たないが。しかし、いくら江戸時代でもあのように日常茶飯事で人殺しが行われてはいなかったようだ。忠臣蔵のストーリーを現代劇に当てはめて脚色するとなると、集団で相手を討ち入り、殺戮するという点で社会的に受け入れらないだろう。暴力シーンが表からは消える代わりにより程度が増し、マニアの世界に特化していく傾向からすると、いつか忠臣蔵もそうなるかもしれない。「悪に対する悪は許される」といった、主張のドラマが国営放送で放送されているというのは冷静に考えれば甚だ変な話である。
誤解して貰っては困るが、いろいろと批判的なことを書いているが私は忠臣蔵ファンである。そして、話はまだ続く。
(秀)
連日で忠臣蔵をテーマに書いているが、最終的な謎である「何故日本人はこんなにも忠臣蔵が好きなのか」の回答を出すには私自身、もうしばらく時間が必要な気がする。NHK「元禄繚乱」の討入りシーンを見ながらじっくり考えて、12月14日頃にその答を披露するとして、一端今回で忠臣蔵の話題を終えることにしよう。
これまでに忠臣蔵は実に多くの映画やドラマになっている。ちょっと前の忠臣蔵イヤーは'94年だった。このとき、同じ時期に2本の映画が作られ、公開されている。1つは東宝の「四十七人の刺客」で、高倉健主演で作られ、宮沢りえも出ていた。ビデオで見たけど、高倉健が昼行灯になりきれるわけもなく、宮沢りえ(妾役)との関係もよそよそしく、そんな出来の作品だった。そして、もう1つは松竹の「忠臣蔵外伝 四谷怪談」で、これは松竹の100周年記念作として作られた。この作品は佐藤浩市主演で、主演女優でお岩を演じたのは高岡早紀であった。その名の通り、忠臣蔵+四谷怪談の話である。この2つをくっつけるとは独自の発想の様な気がするが、そもそもは当時の芝居小屋で忠臣蔵と四谷怪談は同時上演されていたものらしい。今風に言えば 「C/W(Coupling With)」の関係というわけだ。
高倉健主演や松竹100周年という割にはどちらも興行的に言えば芳しくなかった。その証拠として、「外伝」の方を映画館で見たときの話。独りぼっちだった。一緒に行ってくれる人がいなかったという意味ではなく、映画館の観客が自分一人だったのである。時間ギリギリに入館するとそれを待っていたかの様に映写機が回りだした。お盆休みに帰省したときの話だ。もちろんしばらくしてその映画館は潰れてしまっていた。映画の出来としてはなかなか面白かったのだが。
(秀)
またおもしろい、生き神様が現れた(正しくは宗教団体でも教祖でもなさそうだが)。「血ではなく、空気が流れている」、「食事はしなくても生きていける」、「風呂にも入りません」。そして締めは「それが定説だからです」と宣う。取材している側もこれはあきれるしかない。街角で突然、交通整理をやりだしたり、駅で何やら壁に向かって説教している(酔っ払ってはいない)親爺ぐらい面白い。付き合いたくないけど、これで視聴率が取れるんだからとりあえず取材のカメラは回っている。最近は事件と言ったら警察官の不祥事とこのライフスペースしかないのでワイドショー的には救いの神かもしれない。ところで不思議なことが1つある。例の尊師(グル)親爺の肩書きは「元代表」だ。今の代表は誰で何をしているのだろうか。
定説とは、客観的で真理と証明されることを指す。にもかかわらず、定説・高橋翁は「選ばれた人にしか分からない」風なことを言う。しかし、占いと言うのも程度の差こそあれ、同じ方法を向いているような気がする。占いが統計学であるようなことを言う人がいるが、それは間違いである。事象を集め、数の分布を見るのは良いが、どうしてその様な結果が出たかを分析して初めて統計学である。ある星座の人の多くがある特徴を示す結果が出ても(もちろん、そんなはずはあり得ないが)、何故そうなのかを示さなければ統計学ではない。血液占いもそうである。「どうしてそういう占いの結果か?」、と根拠を尋ねていくと、「だってそう決まっている」という結論なら、それは「定説」と同じようなことになるかもしれない。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」とはよく言ったものだが、八卦とは漢語であるため、西洋占星術でこのような言い訳を使って欲しくはない。
(秀)
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