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第1801話 〜2011/8/11〜

■反原発を語るには

 自宅からの最寄駅で朝街頭演説を行っている、某野党の国会議員候補者がいる。今朝は「電力の自由化」を訴えていた。電力販売の独占状態を止めて、利用者が好きな電力供給者と契約をして電力の供給を受けられる、ということらしい。原発反対の人は原発で作られていない電力を購入できると言う。実際そんなことが実現できるかは私には分からない。

 過日の大地震による原発の事故で、にわかに反原発の機運が増した。これまでの反原発と言えば、左翼系の政党や団体のお題目であって、世の多くからは現実味がないということで、あまり注目されていなかった。かつての与党は原発を推進し、その建設現場に多くの金を落とさせ、原発関連企業を庇護してきた。そこに今回の大地震が起きた。

 途端に手のひらを返したように反原発の大合唱である。東京電力をはじめ、電力会社が悪者になって、対応が不十分な政府にも批判が集まる。けど、今の電力事情をもたらしたのは、当時の政権与党であった自民党の責任に依るところが極めて大きい。たまたま民主党が政権を担当しているときに地震が起きたから、「震災後の、特に原発をめぐる対応が良くない」と内閣支持率が下がり、政党支持率が大幅に民主党から自民党に流れているが、もしこれが自民党政権時であったならば、自民党と民主党の立場が入れ替わっていたに過ぎない。

 本当に自民党は民主党を責める資格があるのか?。原発現場の首長は少なくとも原発の建設や稼働を容認してきた。中には積極的に受け入れてきた首長もいることだろう。そこからもたらされる税金や補助金などを嬉々として受け取っていたのではなかろうか?。そのような首長、時の政権を選んできた住民はどうだろうか?。(まだまだ書きたいことはあるが、自粛する)。

 駅で街頭演説をする冒頭の候補者も自宅の屋根にソーラーパネルを載せたというなら支持しても良い。電力の自由化よりも自家発電の促進支援を行う方が実現度が高く、分かりやすいと思うのだが。かく言う私は地震が起こるかなり以前、戸建住宅に住むようになった5年前から太陽光発電の導入を考えていたが、費用と性能の面で導入のタイミングを待っていたところだった。

 反原発や脱原発を唱えるのは易しい。多少状況は異なっているが、言うだけならかつての左翼系の政党や団体と変わらない。言うからには何らかの具体的な活動を実践しないと説得力がない。15%節電したところで、現在の原発依存度は約30%超だから、この程度で原発をなくすことはできない。いっそ原発依存を脱したいと主張する人は太陽光発電などによる自家発電を実践すべきだ。国会議事堂の屋根でも、政党本部のビルの屋根にでも至急ソーラーパネルを載せてみたらどうか。「反原発、脱原発」。この点においては、私は実際に自ら行動を起こした人の主張にしか耳を傾ける気にならない。

(秀)


第1802話 〜2011/8/30〜

■噺家の寿命?!

 「好きな噺家さんは誰ですか?」と聞かれれば、「古今亭志ん朝師匠」と答える。既に亡くなっており、生での高座姿を見たことはない。しかし、幸いにも音源や映像が数多く残っていて、それを楽しむことができる。それらに耳を傾ける度に、「生で見ておきたかった」と思うが、あいにく師の存命中に私は落語に全く興味がなかった。かえすがえす、残念でならない。

 今の若手の噺家となると、生まれたときに既に志ん生師匠は無く、入門したときには既に志ん朝師匠も亡くなっていた、という世代である。そんな中、古今亭の一門で、入門したときに志ん朝師匠が存命だった人(志ん朝師匠一門の直系ではない)から話を聞いた。既に病気に冒されていて、かなり痩せこけていたらしい。「よく怒られましたよ」。自分も志ん朝師匠になら怒られてみて〜い(とりあえず江戸弁で)。

 とりあえず現役の噺家の噺を聞いて、次第に欲が出て、かつての名人と呼ばれた人々の音源を聞き出した。最初は志ん生師匠なんか、どこが面白いのか全く分からなかったが、他の演者と聞き比べて、ようやく最近は面白さが分かった。寄席のめくりで志ん生師匠の名前が出ただけで、あるいは一丁入りの出囃子が掛かっただけで、会場が一瞬で弛緩し、誰もが笑う準備をする。もうそれだけで十分な芸と言えよう。

 それに引き換え、寄席の時間の浅い方(早い時刻、最初の方)に出る若手なんて、まともに笑ってもらえない。確かに前座なんかは、高座に座ってただただ間違えずに与えられた時間を淡々とこなすだけで精一杯である。分かりきった噺であるため、客はそうやすやすとは笑わない。二ツ目も最初はそんな感じでスタートし、場数をこなすことで徐々にうまくなっていく。しばらくぶりに見る二ツ目が急にうまくなっていることも、ままある。

 一般に人間の能力はある時点を境に衰えていく。コンピュータ関連のエンジニアは30歳代でピークを迎えると言われている。長時間の勤務を含めて、その後は効率が落ちるようだ。経験は管理職として生かされるだろうが、現場でのパフォーマンスは若い世代にかなわないだろう。

 一方、噺家の方はどうだろうか?。噺家に限らず、我々は中年期を過ぎたあたりから言葉がスラスラと出てこなくなってくる。ろれつが回らないという程ではなく、頭にその言葉が思い浮かぶまでに時間が掛かるようになる。それでつい、「あれ」、「これ」、「それ」という言葉を多用してしまうことになる。

 「噺家には定年がない」とか、「歩いてきて座布団に座ることができるならつとまる」など、噺家自ら自虐的な小咄をふることがある。噺は稽古を繰り返すことで、日常会話と異なり、ある程度の技術を維持できるかもしれない。しかし、体力が落ちていくと長講は厳しいだろうし、十日間の出演も大変なのかもしれない。

 八代目の桂文楽師匠が「大仏餅」を口演中に登場人物の名前が出てこなくなり、「勉強しなおして参ります」と高座を降りたが最後、二度と高座に復帰できなかった話は有名である。これが志ん生師匠だったら、適当な名前で噺をつないで最後まで話し通したであろう。何とも文楽師匠らしいエピソードである。前日も話した噺ということで、文楽師匠はその当日にさらうこと(練習のこと)をしなかったらしい。文楽師匠らしくないことで、彼は高座を降りることになってしまった。

 個々の噺家のピークがどこであるのかを判断するのは難しい。そんな中、私は若手落語家にがんばってもらいたい。しかし、言葉が出てこなくなって、「勉強しなおして参ります」と言った前座がいるとか、いないとか。洒落なのか本気なのかは分からないが、それで引退することはないだろうけど。

(秀)


第1803話 〜2011/9/15〜

■最近の私的読書事情

 最近、「それ(Androidタブレット端末)と紙(の本)とでは、本を読むにはどっちが良いですか?」と聞かれることがある。とりあげて、電子媒体でのデメリットを挙げるのもなんだし(そんなに気になるデメリットがあるなら、そもそも持って歩いてまでそれで本は読んでいない)、できるだけポジティブなことを伝えるようにしている。

 まずはコンテンツを大量に持って歩けること。従来は最低でも文庫本を2冊は鞄に入れていた。途中で読み終えたり、面白くなかった場合の切り替え用として。このため、その2冊の本はジャンルが異なる形で、例えば、一方が小説なら、もう一方をビジネス系の本といった感じにしていた。途中に本屋に立ち寄って、帰りには3、4冊の本が鞄の中に入っていることもしばしばあった。

 ざっと私のタブレットには100冊前後の本がPDFファイルとして格納されている。過去に1年間で何冊本が読めるかを記録したことがあるが、結構頑張ってみたところで80冊が精一杯だった。時間もそうだが、金が続かなくなった(それでも読んでいない蔵書が山ほどある矛盾)。だから自分では1年間で読みきれない量の本をデータ化して持ち歩いているわけだ。ある意味無駄だが、これによる不具合はない。「次はどれを読もうかな?」と迷うくらいか。それでも文庫本を最低1冊は鞄に入れている。電車内の優先席付近で電子端末を取り出すのが心苦しいときや病院などでの待ち時間用にと。

 読むスピードは、やはり紙の方が早い気がする。実際に計ったわけではないが。時間当たりのページ数は変わらないと思うが、1冊1冊を読み終えるのに要する時間が長い。これは電子端末ゆえに、読みながら思い付いたことを端末でメモしたり、メールの確認など余計なこと考えて、その作業を割り込ませてしまう。誘惑の要素があって、集中度は低い。

 電子媒体で最も困ったことは、ページの頻繁な移動が苦手であること。小説ならば順に読んでいくだけで良いが、それでも前の部分をチェックしてみたり、本によっては目次を見て構成を確認したり、「この本はいつ出たんだっけ?」と、奥付を見たい時など、あるいはそこから元のページに戻るときなど、実に不便だ。

 まあ、こんな感じが私の昨今の読書事情である。

(秀)


第1804話 〜2011/9/22〜

■オープンカーが欲しい

 欲しいものがあると、それが本当に欲しいのかどうかを改めて考えるようなことはしない。それよりまず、どうすればそれを買うことができるかを考える。「分割にすれば月々いくら?」とか、「(今持っている)あれを売ったらいくらかな?」と。手持ちの金で間に合うようであれば、そんな考えさえしない。これは疑うべくもなく我が父親の遺伝子によるものだ。恨めしいがこればっかりは諦めるしかない。

 いろいろと考えている間に買い逃してしまう、というのが最もしょうもない。中古品の一点ものなんてまさにそうだ。清水の舞台とは言わないが、何度飛び降りたことか。もちろん、買ってしまってから、「しまった!」とか「買わなくても良かった」、最悪の場合には「買わない方が良かった」というのも、ままある。これはある種の仕方ないことだと思っている。そんなときは、さっさとオークションで転売なんてことになる。便利な世の中になった。

 そんなわけで、今私が欲しいのは車である。安い中古車であるが、オープンカーである。一生のうち一度くらいはオープンカーに乗ってみたいと、かねてから思っていたが、現実的な候補が現れた。年式は古いが走行距離が極めて少ない。実際にその車を見てきたが、電動のハードトップも動作に問題なく、屋根とトランクの間をテキパキと往復する。

 会社で同僚に話をすると、いろいろとネガティブな話題ばかり出てくる。二人しか乗ることができないことなどは、はなから問題ではない。古いから壊れる易いかどうかもこの際問題ではない。時間は経っているが、相当走っている新し目の中古車よりは余程コンディションは良いので故障は少ないのではなかろうか?(もちろん、希望的観測)。屋根を開けた状態のまま、故障して屋根を閉じることができなくなったらどうする?、なんてことも考えられなくはないが、考えてもキリがない。ましてやそこで運悪く雨が降ってくると考えることも。ただ実際に故障が起きた際、いざ部品が必要となったときにその部品が新品で手に入らない可能性が極めて高い。中古部品でも稀少車(不人気車)である。そもそもの母数が少ないから、極めてヤバイ。

 たかが車であるが、人生がちょっと変わるのではないか、という期待もある。かつて私は自分のコラムで「物欲は変身願望だ」と書いた。まさにその通りの車との出会いと言えよう。さすがにこればっかりは家人に内緒で買えるものではない。幸い、駐車場代が別に掛からないのが嬉しい。さて、オープンカーのオーナーに私はなれるだろうか?。まあ、今のこういうタイミングが一番楽しいのも事実である。

(秀)


第1805話 〜2011/11/14〜

■上から目線で手が止まる

 自分自身、文章を書くことにおいて、大きな迷いが生じている。私のコラムが途絶えた理由はそれである。コラムだけでなく、ブログも書けていない状況である。いや、書いてはみるものの、リリースをためらってお蔵入りさせているものがいくつもある。

 「自分は評論家になっていないか?」という自問がある。これまで自分が書いてきた文章を読み返してみる。懐かしネタは良いとして、次いで政治や社会の事件に対して自らの意見を書いた文章が多いようだ。その多くは批判的な論調がほとんどである。まあ、その視点がある種特徴的でそれ故に支持されたこともあったりしたが、今風に言うといずれも「上から目線である」

 例えば政治家に対する批判、若手落語家の芸に対する苦言。その一方でそんなことを言う自分は何者だ?、という疑問が生じた。例え評価に値せず、苦言を呈したい政治家がいたとしても、彼らは選挙によって選挙民に選ばれた事実がある。自分にもそれができるかと言われても、できるはずもない。若手の噺家についてもそうだ。名人上手と言われた師匠たちと比べて、まだ芸が稚拙なのは当然のことである。それを捕まえて得意顔で意見したところで、自分が彼らよりも上手く話せるわけもない。それなのに何を根拠に上から意見を述べているのか?

 テレビのニュース番組がニュースショー化し、ワイドショーなんかにもコメンテーターというのが登場する。大学の先生や記者ならまだしも、その分野において何の深い知識を持っていない芸能人が評論家めいたコメントを吐く。その影響なのか、街頭インタビューで一般の人々もしたり顔でコメントを言う。まるで全国民が評論家ぶっているようだ。

 妻の話につき合わされる夫の苦悩というのがある。適当に聞いていると、「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」なんて言われる。聞いたところで、どうでも良いような話ばっかりである。話すことでストレスを解消しようとしているだけでしかない。そんな中に芸能情報や政治ネタが登場してきて、評論家みたいなことを言ってくることがある。途端に聞かされていることがこちらにはストレスとなり、耳をふさぎたくなる。

 最近若い連中が経験もないのに「上から目線」で、もの言いをする、なんて話がある。「一体、何様のつもり?」、「その自信は何?」。言っている本人にその意識があるのかどうか分からないが、私にはそれらが無意識のうちに行われているような気がする。彼らが小さいときから、テレビでコメンテーターがコメントを吐くことを日常的に見てきた。また、インターネットの普及で個々人がサイトやブログ、メルマガで自由に意見を発することができるような環境下で育った影響が多いのではなかろうか。

 テレビのコメンテーターには辟易しながらも、インターネット環境で意見を発信することを私は続けてきた。それを楽しんでさえきた。そしてここにきてそれが自分が最も嫌ってきた評論家と同じ立場からの目線になっていることに気がついて、手を止めてしまった。批判するだけでは何も生まれてこない。批判するだけでは、ただ世の中が暗くなるばかりである。

 そう言っている、この文章すら既に批判的であり、上から目線である。悩みの根は相当深い。

(秀)


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