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第341話 〜2000/9/8〜

■視聴者の欲望

 しばらく、視聴者参加番組がほとんど姿を消し、冬の時代と言うべき状態があったが、最近はまた復活してきたようだ。しかし、その傾向はかつてのクイズ全盛の頃と比べるとかなり趣が違っている。以前は法律の枠も有り、賞金額も百万円が上限であった。確かにこの額でも有り難いに違いないが、出場者はそれ以上に「名誉」を欲して、これらのクイズ番組に出ていたような気がする。

 ところが最近の視聴者参加番組は実力本意というよりも、ギャンブル性の強いものが主流となっている。しかもそれを賞金で煽っている。顕著な例が「しあわせ家族計画」という番組だ。出場希望の家族に難関を与え、それをクリアすると家族が欲しがっている総額三百万円までの賞品が貰える。だいたいその課題に挑戦するのは父親だ。彼を励ます家族の様子をVTRとして番組で流すのであるが、その姿は見るからに賞品のためのもので、真実の家族愛と呼ぶにはあまりにも見苦しい。そこには賞品欲に駆り立てられ、父親を叱咤する姿がある。

 そして挑戦に失敗し、賞品が獲得できないとなると、父親の威厳などあったもんではない。番組で泣き出す子供もいて、目もあてられない。その雰囲気のまずさと言ったら、しあわせ家族どころか、番組に出たこと自体が悪夢となってしまう。父親を励ますのなら、もっと平常時から、仕事で成果を出せるように仕向けるべきで、出場が決まって出演までの間、そのことが気になって仕事が手につかない状態や家族が浮き足立ってしまった状態を見ると、「この人達のしあわせって何だろう?」と思えてしまう。

 同じような姿は「筋肉番付」で我が子の挑戦がもう少しで賞金獲得となると、番組用の大きな小切手を持たされた母親が同じように強欲な姿をさらけ出している。あわよくばプロスポーツ選手に、という意識も働いているに違いない。こんなテレビ番組が増えてしまうのも、日常的に打算的な意識がはびこっていることの現れだろう。

(秀)


第342話 〜2000/9/11〜

■法の下の平等

 「法の下の平等」。人は法の下では性別、身分、門地、思想など差別されないということだと思うが、実際はそうとは思えないことが多い。いざ、賠償となると人間の値段がその人の収入や将来性に応じて査定されることとなる。大学の時、法律の授業で教官から興味深い話を聞いた。「法の下の平等というのは、誰もが平等に扱われると言うのではなく、誰もが同じ法律の適用を受ける、ということです」、と。あまり、ピンと来ない話であるが、確かに現代に「武家諸法度」のように特定の階級にのみ提供される法律は皇室関係のものぐらいしかない。なるほど。しかし、同じことをやっても罪になる場合とそうでない場合がある。同じ刑法の適用を受けても、民間企業に勤める私には「収賄」の罪は適用されない。

 法律というのは適用範囲が明確でなければならない。殺人は誰がやっても殺人である(誘拐や窃盗は相手との関係において罪にならない場合がある)。ところが、かなり適用が曖昧な犯罪が存在する。それはセクシャル・ハラスメントである。同じ事をやっても、やる人、やられる人によって、罪になったり、ならなかったりする。

 以前は特に意識していなかったことに急に罪の意識が起きたりする。酒の席に女性社員を誘って、酌を強要したり、デュエットを強要したりする事はどうもいかんらしい。このような例ではほとんどの場合はセーフだろうが、セクハラになる場合もあるだろう。ただ、境目が極めてグレーで分かりにくい。しかし、その一方でホステスは酌やデュエットを、すなわちセクハラを商売として金に換えているわけだ。彼女たちが客をセクハラとして訴えることはないであろう。ますます適用範囲がブレ、平等はどこかに行ってしまう。何やら高尚なタイトルのわりにはいつもの様に下衆な話となってしまった。

(秀)


第343話 〜2000/9/12〜

■ゆずと19の見分け方

 二人ともギターを弾いているのが、ゆず。一人がボーカルに専念しているのが、19(ジューク)。以上。

(秀)


第344話 〜2000/9/13〜

■おせっかい

 今クールのドラマで目につくのは、主人公の「おせっかい」ぶりである。「Summer Snow」の夏生(堂本剛)は、たぶん地のキャラクターもあるだろうが、面倒見の良い兄貴を演じるにあたり、かなりおじさんが入っている。「花村大介」の大介(ユースケ・サンタマリア)も「バスストップ」の武蔵(内村光良)も「20歳の結婚」の蓮子(優香)も。彼らもそれぞれ、相当なおせっかいである。主人公ではないが、「Friends」の梨紗(和久井映見)も、やはりおせっかいなキャラクターである。それに、ちょっとストレートではないが、「合言葉は勇気」の仁太郎(役所広司)も最初は自らの意志ではなくとも、周囲に流されながらも、やはりおせっかいの部類に入るだろう。

 中でも、花村大介は無報酬で、しかも所属する事務所を辞めてまで、不当解雇された女性達の弁護を引き受ける程である。こんな感じでおせっかいな人々が揃ったのは偶然なのだろうか?。こんな主人公は決して格好良くない。いわゆるヒーローではない。しかし、それぞれ人間的な魅力には満ちあふれている。こうもおせっかい人間がこの時期まとめてドラマに登場し、人々の好感を得ている。と言う事は世はまさに、おせっかいな人々を求めているに違いない。

 よって、私もおせっかい人間を目指し、毒にも薬にもならなくとも、日々コラムを書くといったおせっかいを続けていこう。さあ、みなさんも勇気を出して、おせっかいな人々を目指そう。まずは「秀コラム」の存在を周りに人々に教えてあげるのが手軽で良いかも。私もうれしいし。

(秀)

from.Miyoさん

第345話 〜2000/9/14〜

■怒ると叱る

 '98年公開の映画で「てなもんや商社」という作品があるが、この映画の中で、怒るという事を実に興味深く表現していたので、そのことを紹介したい。前置きだが、この映画の主演は小林聡美で、中国を相手にした小さな商社を舞台に、彼女の上司、華僑の課長を渡辺謙が演じている。「怒るというのは、結局自分に責任がない事を主張したいだけなんだ」と課長が言う。なるほど、そんな捉え方もあるんだ。また、小林聡美が失敗した時に彼は彼女を怒らない。「どうして怒らないんですか?」という彼女の問に対し、彼は「十分反省しているでしょう。だったら良いんです。怒られたら、それで済んだと思う方がよっぽど良くない」と説明する。

 私は仕事の事であまり怒る事はしないが、先日珍しく会社で怒りをぶちまける事があった。この話にはたちまち尾ヒレがついて、「キレた」という噂になって、私の元に返って来た。正しくはキレたのではなく、意識的にキレた振りをしてみた。怒ったのではなく、怒った振りをしたに過ぎない。実は結構冷静に演じていた。今となって思えば、これは自分に責任がない事を示すためのパフォーマンスだったような気がする。

 一方、叱るということは怒る事に対して、冷静さが必要で、相手よりも優位な立場でなければならない。会社では怒る事が少ないが、家では怒る事がしばしばある。しかしこれは自らに責任のない事を主張しているわけではない。子供にそんな風に向きあって怒っても意味がない。怒られて、それで済んだと思われても困る。怒るのではなく、叱る。怒るのは簡単だが、それがお互いの利益となる事は少ない。怒ると叱る、同様に、怒られると叱られる。一見同じように見えるが、これらにはとても大きな違いが存在している。

(秀)


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