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日本テレビで「蘇える金狼」が香取慎吾の主演で放送されている。これは以前、松田優作主演で映画化されたことがある。映画を見たことがない人でもその事実ぐらいは知っているだろう。映画を見ずにドラマだけ見ている人に断っておくが、ドラマは原作とかなり違っている。宅間 伸の悪役にも相当無理がある。それに対し、映画はかなり原作に忠実だった。映画と原作の方は冒頭に警官を襲い、拳銃を強奪するところから始まる。ドラマでは復讐という建前で行動を正当化する感じがあるが、本来は自らの欲望のために行動を起こしている。大藪春彦の作品はこうでないといけない。
ところが、それ以上に松田優作というと、ジーパン刑事だと言う人がいるかもしれない。「太陽にほえろ」のジーパン刑事こと松田優作が「なんじゃ、こりゃー」と叫びながら、凶弾に倒れたことを知る人は多い。当時幼かった人でさえもこのことは知っている。それはそういった名場面シーンだけを集めた番組でしばしば取り上げられるからだ。フランダースの犬の最終回やクララが立って歩くシーン(ハイジ)も同様である。ただ、このいずれも私の場合、自分の記憶の原体験としては存在していない。その当時その番組を見ていなかったのだ。再放送でも然り。だからそのシーンは強烈に刷り込まれていても、ストーリーの前後や背景については全く分かっていない。この事は原体験がないにもかかわらず、知識として持っているものと変わらない。松田優作の「なんじゃ、こりゃー」は「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と私の頭の中では同じレベルの知識の一部でしかない。やはり優作は映画だろう。ドラマの「探偵物語」は許すけど。
(秀)
これまでの名画と呼ばれる映画には邦題の付いたものが多い。その中でも「風と共に去りぬ」というタイトルは日本語の文語体という洋画とは一種反発しあうような要素がうまくおさまっている。「GONE WITH THE WIND」を「風と共に去った」ではあまりにも味気ない。「ぬ」は完了を表す助動詞である。「THE LONGEST DAY」を「史上最大の作戦」と訳すセンスも秀逸である。たとえ直訳であってもデザインされた日本語で表示されたポスターの雰囲気も楽しい。ただ、原題から外れた邦題もある。「卒業」は原題を訳すと「卒業生」となる。かと言って、「卒業」であれ、「卒業生」であれ、あの映画には別のタイトルを付けても良かったと思う。タイトルとストーリーの印象が直接的でない。「インターネット」は「THE NET」でしかないのに話題性に便乗してしまった例である。
その一方で最近の洋画は原題をカタカナ表記しただけのものが多い。確かに「タイタニック」は訳しようがない。「ラスト・エンペラー」も「最後の皇帝」では雰囲気が壊れてしまう。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」はどう訳すべきか?「エイリアン」も「地球外生物」では恐くない。「レイン・マン」も変だし、「サタデー・ナイト・フィーバー」などは考えるだけで恐ろしくなる。
国内での封切りが待たれる、最新の「スターウォーズ」であるが、20年程前の最初の国内での配給に対し、「宇宙大戦争」という邦題を準備していたらしい。神経を疑う。けど、中国では「宇宙大戦争」というタイトルで上映されているのかもしれない。「宇宙大戦争」う〜ん、何だかドラえもんの劇場アニメのタイトルみたいだ。
(秀)
カレーライスとライスカレーの違いをご存知だろうか?ルーが上とか、ご飯が上とか、そういうこじつけの話ではない。明治になってカレーライスが日本にやって来た時、それは高級料理で、ご飯の盛られた皿と仰々しくカレーポットに注がれたカレールーによって構成されていた。特に疑いもなく、やってきた当初のスタイルとしてルーとご飯は別々だったのである。それに対し、横浜のある店がご飯の上にルーをかけた状態で出し、それをライスカレーと呼んだのである。と、「まんが はじめて物語」で教えてもらった。よって、我々が通常口にしているのはライスカレーということになる
続いて第2問。ざるそばともりそばのそもそもの違いは何だったか?これは、だしの違い。ざるそばが一番だしを使用し、もりそばには二番だし以降を使用していたらしい。のりはサービスか目印としての存在だったのだ。けど今はそんな区別をしている所は少ないだろう。
オムライスのタマゴの中はチキンライスというのが基本である。チキンがなければ、それはケチャップライスと呼ぶべきものだ。「カレーライス」とメニューに書かれていながら、目の前にライスカレーが届けられたようなものだ(冒頭は長い前振りだった)。それに、タマゴが上に載っかっただけというものを出す店もある。「天津飯か!!」。やはり、しっかりとくるまないといけない。もちろんタマゴが破れているというのは論外であるし、プレーンオムレツを載せただけのものは二番だしでそばをすすっているようなもんだ(これも前振り)。
できあがったオムライス。うまくタマゴにくるまれているか周りをぐるんと確認して、中がチキンライスであることを祈りつつ、さてどこからいただこうか?ケチャップをグルグルとスプーンで伸ばし、一気に真ん中を掘るか。端からしみじみ食べて行くか。ケチャップで服を汚さないように。そして、食べ終わったら口の周りをきちんと拭こうね。
(秀)
大学まで田舎で生活していたため、テレビでドラマを見ていていろいろと不思議に思うことがある。場所や舞台の所在地が分からないので、そこに込められた暗黙の設定など分かりようもない。例えば、「金曜日の妻達へ」に出てきた、たまプラーザというのがどういう街で、そこを走る田園都市線がどこにつながり、沿線がどんな街かも分からないのである。たまプラーザというのは単にロケーションの情報でおさまるものでなく、ある程度の生活レベルや年収までも記号化したものである。だから、同じドラマを見たにしても首都圏に住んでいる人とずっと田舎住まいの者とでは、ドラマの理解度がはなから違うということである。
同様の話は映画にも存在する。洋画となると本当に制作サイドの主張を全て読み切れているかとしばしば思う。いくら戸田奈津子さんの翻訳が素晴らしかろうと、画面を見たところでそれを知りうることは困難である。まずはロケーションである。位置にまつわる地理的な情報以外に、それには治安や経済状況、文化を前提として設定されているかもしれない。次に、役者が喋るイントネーションやスラング。演出として、身分や教養に関する情報が込められているかもしれない。字幕では理解が困難なことである。それに、人種や宗教などまで付加されてしまえば、ほとんどの日本人にはお手上げのはずである。
話を元に戻そう。国内でもカルチャーギャップは存在する。学園ドラマ、とりわけ高校ものに見られる。朝の登校シーンで生徒が徒歩で通学してくるのが、私には不思議でたまらなかった。彼らが、近くまで電車やバスで来ているとは思いもよらないからだ。田舎の主要な交通機関は自転車である。朝、「おはよう」など、笑顔で交わしている余裕などない。ひたすら自転車をこぎ、校門を目指す無口な集団の姿があるだけだ。
(秀)
子供のころよく通ったその駄菓子屋は通称「こども店」と呼ばれていた。看板には「井上商店」と書かれているにもかかわらず。だが、うちの母親などは「かっちゃんがた(『がた』は○○の家の意の方言)」と呼んでいた。理由を尋ねると、こども店はおばあちゃん一人でやっているが、そのおばあちゃんに息子がいて、その子の名前が「かっちゃん」ということらしい。それからしばらくして、夏休みなどに子供を連れて帰って来るおじさんをみかけ、「この人がかっちゃんだな」と思ったりした。蛇足ながらうちの隣の八百屋は「山田青果店」と看板を掲げているにもかかわらず、家人達は「ゴロさん」とその店を呼んでいた。店の親父さんが「山田五郎」というらしい。
子供達がつける名前は結構残酷である。友達のあだ名がそうであるように。周りの駄菓子屋に様々な通称が存在した。「いも屋」、けどイモを売っているのは見たことない。「ケチ屋」、親父がケチらしい。「つり屋」、釣り具も一緒に売っていた。ぜんぜんプロフェッショナルではないが。「ブーバッチャン」、太ったおばさんとばあちゃんがやっていた。この店は通学路の途中、正門までのメインストリートにあったため知名度は抜群だった。逆にこれらの店の正式店名の記憶はない。自転車を手に入れてからは他校のテリトリーまで遠征したりしたが、馴染みではないため店の通称を耳にするようなことはなかった。
駄菓子屋もだいぶ少なくなってしまった。残った店も子供相手に微々たる小銭の商売でよくやっていけるのが不思議なほどである。駄菓子とはマイナーな菓子のことである。ベビースターラーメンは今でこそメジャーになったが、もとはマイナーだった。駄菓子と対極にあるのは「大人菓子」と呼ばれる、メジャーな菓子達である。駄菓子と同じ棚に「ブルボン ホワイトロリータ」が並んでいるのは良くない。今は駄菓子屋の役割をコンビニが担うようになり、こんな陳列を見ては悲しくなってしまう。
(秀)
今回は概論。店の特徴や駄菓子の内容については、またの機会に。
from.恩ちゃん
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