\  \ 

第391話 〜2000/11/22〜

■古本屋

 最近、古本屋に行くことが多く、自分としてはちょっとしたマイブームになっている。漫画のコミック本を自分のために買うことはほとんどないが、妻や子供達にコミック本探しを頼まれているので、少女コミックも含めて店をくまなくうろうろしなくてはならない。そして、値段の安さから、すぐ読みたい本でなくても、「そのうち読もうかな」と、そんな本までも買ってしまう。古本屋のマイブーム以前からも、気になる本はその都度次々と買っていたので、常に読んでいない本が結構ある。おまけに最近はなかなか本を読む時間が取れない。それに、古本がドカっと加わったわけだ。

 本当に探している物がある場合は神田に出掛けるのが良いのだが、初めてJR神田駅に降り立った時に、しばらく歩いても楽器屋やスキー用品などを扱う大型のスポーツ店ばかりで驚いてしまった。秋葉原=電気街、神田=古本街、というイメージはあながち間違いではないが、「神田」がJR神田駅を中心としたテリトリーではなかった。それに気が付いてからは地下鉄の神保町駅を利用するようにしている。しかし、同じ業種の店が集まっていると移動には便利だが、それぞれの店での値付けが気になってしまう、デメリットもある。

 古本屋というのは特に目的を持って行くわけでなく、ふらりと行って、たまたま昔探していた本や正規の値段では決して買わないであろう本までも衝動的に買ってしまう、そんな気軽な暇潰しが心地良い。フリーマーケットでも最近は古本に目が行ってしまう。

(秀)


第392話 〜2000/11/24〜

■ただいま、準備中

 そろそろ、まぐまぐによる「秀コラム」のメルマガ配信を始めて1年になる。当初100人足らずで始めた読者数も、現在は560人ちょっと。欲を言えばきりがないが、せめてはもう少し読者数が欲しいところである。願わくば、1000人台。

 読者の中にも同じように思ってくれている人がいて、先日メールにて具体的な読者拡大計画なる提案をいただいた。その中で、「タイトルに華がない」という指摘があった。何とも痛いところであるが、こればっかりは先代からの言い伝え(ウソ、先代なんかいないけどね)で、看板をそう易々と変えるわけにはいかない。その結果、「姉妹誌(のメルマガ)を出したらどうか?」という提案を検討することにした。姉妹誌が獲得した新規読者を本家「秀コラム」の読者にもしようという作戦である。

 その人の分析によると、まぐまぐの総読者数は現在300万人を超え、新しいメルマガの方が最初から読者数が多いというものだった。確かに、発行IDが若いメルマガの方が配信開始間もない割には読者数が多いケースが結構見受けられる。それ以上に、「何でこんなメルマガに読者が多いのか?」という疑問もあるが。

 とりあえず、新メルマガは週刊で週末発行なら何とかなりそうな気がする。かと言って、全て新作を書き下ろすのは難しい。そこで、これまでのバックナンバーを活用しながらも、新しい趣向でのコラムメルマガができないかと思案した。その結果、かなり画期的なスタイルを思いついた。タイトルは「コラム:大辞典」。文字通り、辞書+コラムで「1粒で2度おいしい」メルマガを指向。どこが新しい趣向なのかは説明が難しいので近々公開予定のサンプルを見て欲しい。さて、二兎を追うものはどうなることやら?。

(秀)

【サンプル公開中】


第393話 〜2000/11/27〜

■酸っぱい葡萄

 ものごとが自分の思い通りにいかないことが多いのは世の常である。多分に思い描くことがひいき目で、阻害要因などを避けて計画してしまうことが原因であろう。さて、物事がうまくいかないとなると次に人々はどうするか。ある者は別のものにそのターゲットを移し、アプローチを開始する。第一志望がダメなら、第二志望に、あるいはそれを繰り返す。ただしこれは、同じカテゴリー内で解決するものばかりではない。家が買えないとなると、代わりに車を買って満足を満たそうとするような例もある。またある者は全面的にその目標を取り下げ、逃避してしまうかもしれない。

 結果として、満足が得られれば良いかもしれないが、人は最初にうまくいかなかったことに理由付けをしがちだ。その中に「酸っぱい葡萄の理論」という心理学の用語がある。高くて届かないところに葡萄があるが、その高さ故に葡萄を取ることができない。すると、「あの葡萄はどうせ酸っぱいに違いない」と決め付けて、自らの不満を自分の責任から切り離そうとする例えである。あきらめのための理由付けでもある。

 恋愛に関して考えてみよう。自分の思いが相手のせい(実は自分のせいだったりもするが)で叶わなくなったとしよう。中には「もっと良い相手を見つけて、見返してやる」と思う人もいるし、極端な例では「自分を捨てた相手が不幸になれば良い」と思う人もいる。これでは、酸っぱいどころか腐ってしまえと願っているようなものだ。しかし、こんな場合に限って、別れた相手が幸せになったりする。何故なら、最初の願望が叶わなかったことに対し、続けて自分に都合の良い願望(ここでは「自分を捨てた相手が不幸になれば良い」ということ)を重ねているにすぎないからだ。

 うまくいかなかったのは葡萄が酸っぱかったわけではないはず。

(秀)


第394話 〜2000/11/28〜

■判断と選択

 人生は判断と選択の繰り返しである。就職先や結婚相手選びは言うに及ばず、昼食を何にするか、やるべき仕事の順番をどうするかにおいても判断と選択が必要とされる。もちろん、こんなものの判断は些細なことで、その人の人生に影響を及ぼすとは到底思えないが、その可能性が皆無であるとは誰にも断言することはできない。

 ところで、自分にとっては些細な判断や選択が他人の人生に影響を与えることがしばしばある。組織で責任ある地位に進むにつれて、あるいは人の親となった途端に、自分以外の分の判断も行わなくてはならなくなる。我が子や部下の分の判断となると、自分への影響もあるので、それなりに気を遣う。その一方で自分のことを他人に決めてもらおうという人がいる。占いに頼るのがそうである。

 また、身のまわりの全ての事象を「運命」と考える人がいる。人生は必然により決定されているという考えである。結構これは気楽かもしれないが、自分の人生なんだからもっと主体的に決断すべきであろう。これは占いに頼る人にも言える。人生に必然などありはしない。実のところ、「運命」というものは存在しない。人々が「運命」と呼んでいるものは、偶然の統合体として存在する現実の姿に他ならない。人生とはそのときどきの判断と選択の積み重ねでできているわけで、到底人任せになどにしてはいられない。

(秀)


第395話 〜2000/11/29〜

■仲間意識と世代の壁

 最近は人と人のつながりが希薄で、とりわけ組織を通じてのつながりという点ではその傾向が強い気がする。卑近な例では会社の上司や同僚達と飲みに行くことが少なくなった。私が会社に入った当時(10年程前)には残業が一段落ついたあたりで上司の「これからみんな飲みに行くか?」というのがあった。テレビなんかで目にするあの雰囲気である。もちろん、その場にいた人はゾロゾロと上司にくっついて会社を後にし、会社近くの店へと向かう。「今日は遅いから30分で」と言われていても、だいたいは1時間コースである。不思議と飲みながら仕事の話などは出ない。そして、決まって同じ会社の別のグループが同じ様な構成で先に居たり、後からやって来たりしていた。

 ところが今は即日即決の飲み会などまずない。飲み会となるとあらかじめ1週間程前に幹事たる者がメールなどで出欠の確認を行う。それも「○○さんの送別会」などのイベントでないと集まらない。ちょうど私達の世代を境に、上司が部下を誘って飲みに行くのが減ったようだ。彼らは上司の誘いをストレートに断る。そのせいか、おじさん達は自分達の世代だけで仲良くやっているようだ。おかげで中途半端な我々の世代も上からのお誘いがかからなくなった。若い人には「上司と一緒に飲むのは面倒」という意見もあるだろうが、かと言って仕事が終わった後に若い者同士で飲みに出掛けている雰囲気もない。

 冒頭に書いた組織を通じた人と人との希薄になった話だが、新しいスタイルとしてその目的別に様々なグループを作るようになっている。飲みに行く仲間、趣味の仲間、etc...。かつては仲間は決まっていて様々なアトラクションもいつも同じメンバーだったはずなのに。嗜好が多様化し、専門化した結果か、それとも組織への帰属意識が弱まったせいか?。若い人に限った話ではない。ところで、これって、私の周りだけに限った現象かな?。

(秀)


 \  \