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第396話 〜2000/11/30〜

■ラッシュアワー

 「なんかこれ、やばいんじゃないかな?」という感じが最近ある。身の回りの個人的なことではない。社会全体がどっかやばい。ヘッドフォンからはGAKU-MCの「ラッシュアワー」という曲が流れている。最近は通勤途中にまさにこの「ラッシュアワー」を聞きながら色々と考えることがある。

 曲の歌詞がなかなか面白い。「ラッシュアワーの疲れがシャワーで流せないまま また夢の中 追い詰められた 気持ちのまま」というのがサビ。ラップである。韻の踏み方もギターのカッティング、ソロの音もなかなか心地良い。その歌詞の中で社会的な矛盾が切々と綴られている。朝はとりわけ不機嫌な顔、顔、顔がすし詰めの状態で同じ電車の中にある。毎日当たり前の風景であるけれど、ラップではこんな風景も「やばい状態」として歌詞になる。すると曲の歌詞を追う毎に、今までと違った姿で社会が見えてくる。

 「速すぎる進化の波」という歌詞が出て来る。最近はドッグイヤーなんぞの言葉でその様子が形容されている。しかし、誰かがその速度を求めたのだろうか?。それでも、人々は何かに追われている。「みんな、もっと認められたいよね?」、けど「誰に?」。「誰に?」の明確な答がないにしろ、そう思っている人は結構多いんじゃないかな?。「ラッシュアワー」をそんな「やばいこと」の象徴として彼は歌っている。その曲のパワーに乗せられ、今日も会社へと急ぐ。

(秀)

参考サイト:GAKU-MC Official Homepage
http://www.antinos-r.co.jp/gaku-mc/gaku-mc.html
各曲紹介に書かれたエッセイが秀逸。曲の視聴も可。


第397話 〜2000/12/1〜

■新聞取材を受ける

 産経新聞者の記者さんからのメールが届いたのは今週火曜日のこと。そのメールには「メルマガをテーマに取材」がしたい、と書かれていた。おそらく、まぐまぐで私のメルマガを見つけたのであろう。ちょっとの時間、葛藤、煩悶。「これでメジャーになれるか?」という気持ちと「秘密(第200話参照)がバレると、コラムが終わってしまう」という2つの意見の戦い。結果、取材を引き受けることにした。その旨返事を書くとその翌日に、またメールが来た。そのメールには「活動されている様子を直接拝見してお話を伺いたい」と書かれている。早速、そのメールにあった電話番号に電話をする。「書いている場所は電車の中なんです」。

 その電話から数時間後、記者さんとは会社の最寄り駅で待合せ、そのまま地下鉄で新橋まで移動した。電車内でいつものように書いている様子の写真をこっそり(無許可で)撮った。「後ろ姿だけにして下さい」と注文をつける。本当は自宅まで来て、メルマガを発信しているところも見たいと言われたが、さすがにそれはお断りした。新橋に着くと喫茶店に入って取材を受けることにした。アマンドに入る。中では誰かと待合せをしている女性が目についた。しかし、彼女達は私が想像するに、仕事帰りのデートの待合せではない。出勤前の客との待合せに違いない。いわゆる「同伴」というやつ。そうだ、ここは銀座のはずれでもある。

 話がそれたので元に戻そう。記者さんに質問された幾つかのやり取りを。「どうして、内緒でコラムを書いているんですか?」、「200話を読んで下さい」。「コラムを書き始めた理由は何ですか?」、「100話に書きました」。「毎日書いてらっしゃますけど、どうして毎日続けられるのですか?」、「300話に書いたんですが、...」。「コラムを書く上でどんなことを意識していますか?」、「それは近日リリースの400話に書く予定ですが、...」。「これでうまくいって、文筆業に転身したいといった気持ちはありますか?」、「それはありません、サラリーマンをやっているから、その視点で書けていると思いますから」。

 終始こんなあっさりしたやり取りであったわけではなく、約1時間の間に書籍化にこだわる理由なども含め、いろいろと話した。聞かれていないことも話した気がする。今回の記事は今度の日曜日(12月3日)の産経新聞に載るらしい。けど、首都圏版だけらしい。期待していた、コラムのタイトルやサイトのURLは載らないとのことだった。残念。

(秀)


第398話 〜2000/12/4〜

■バスを待つ心理

 通勤の際、家から最寄り駅までの往復にはバスを利用している。駅まで歩けない距離ではないし、気候が良く雨が降っていなければ自転車という手(足?)もあるが、寒くなってしまうと毎日がバスとなる。さて、バス停が見えてくると、人が並んでいたりいなかったり、あるいは大量に並んでいたり。まず、人が並んでいないということは、バスが通過して間もないということである。ちょっと待つ覚悟がいる。並んでいる人が多ければ多いほど、前のバスが通過して時間が経っている=もうすぐ次のバスが来るかな?、ということを示している。しかし、あまりに人が多いと乗れない可能性もある。

 この時点で歩く決心をして駅に向かえば、遅刻をすることなく会社には着く。歩く時間は約20分。しかし、バスに乗ってしまえば、たとえ途中で渋滞があってもバスに乗っているのは5分程度である。歩いている横をバスが通り過ぎて行ったことが何度あったことか。このときはとても悔しい。

 とりあえず、バス停に並ぶ。5分なら何の問題もなく並んでいられる。ほとんどの確率で5分以内にバスはやって来る。しかし、たまに冷や冷やさせられる場合がある。待ち時間が10分を過ぎるとちょっと迷いが生じる。「今ならまだ歩いても間に合う」、しかし「ここまで待ったんだから、もうすぐバスは来るさ」。とりあえずこのまま待つとして、さらに5分が過ぎた。待っている時間が長くなれば長くなるほど、身動きが取れなくなる。「今さら駅まで歩いていたのでは遅刻してしまう」。もう、バスを待つしかない。ちょうどパチンコに負けている時の心理に近い気がする(きっとこんな感じだよね)。

(秀)


第399話 〜2000/12/5〜

■しっくり感

 新しく身につけるものを買うとなると、しっくり感が重要であるが、店先ではなかなか判断ができない。靴を買うに、まず履いてみることは誰しもやる。色やデザイン、それにサイズの判断は店頭でも十分かもしれない。しかし、実際にその靴をおろした日の朝、玄関を出た僅か数十歩で違和感に気が付く。くるぶしの部分が擦れていたり、踵が痛かったり。底が滑る感じがしたり。歩いたことで初めて分かる。店先でその靴を履いたまま歩き回るわけにもいかなく、こんな経験は誰にでもあるだろう。

 鞄もそうだ。これまで使用していた鞄から中身を移し替えた途端に形がいびつになったり、重心がおかしくなったり。手提げ部分の変形やそれに伴う違和感は結構致命的だ。傘を買う時も注意を要する。値段やデザインに気を取られていると、肝心な取っ手の部分のしっくり感を見落としてしまう。確かに握ってはみるものの、会計を済ませて持ち帰っている間にも取っ手の違和感を感じる場合がある。かく言う私も、新しく買った傘を1日持ち歩いてそう感じている。

(秀)

from.ひこちゃん

第400話 〜2000/12/6〜

■普通でないコラムを

 コラムニスト(秀)は演じている。彼は日頃の私とは別の人格である。私自身が(秀)を演じている、という表現が正しいだろう。その証拠に、書き上がってホームページで読む自分のコラムや本でのそれは、客観的に一読者の立場で読める。手前味噌で恐縮だが、400話の文量を思うと、「よく書いて来れたなあ」と感心している読者としての自分がいる。ついでに日常の自分とコラムを書いている(秀)は多少性格が違っている。

 世にはあまた多くのコラムがあるし、メルマガやホームページの登場で敷居がだいぶ低くなって、誰しもが自由に意見を発表できるようになった。しかしながら、玉石混淆。お決まりな結論が容易に予想されるコラムが実に多い。時事問題に関して例を挙げるとすれば、政府や社会悪などに対し、被害者を代表するような口ぶりで「けしからん」という結論。ちょっと気の利いた例え話が出て来るのが関の山である。ドラマに例えて言えば「水戸黄門」。先が読めてしまっている。しかし、皮肉なことに新進気鋭のドラマよりも視聴率(読者数)が良かったりする。

 常日頃、私がコラムを書きながら思うことは、自分にしか書けないコラムを書いているか、という自問である。まあ、全作がそうとは限らないが、自分の実体験をベースに展開するし、また視点もある種、盲点と思えそうなところから眺めてみることにしている。もし、思いっきり言いたいことがあっても、誰もが同じような発想をするであろうことは書かないことにしている。それに、どこかで拾って来たようなネタの受け売りもやらないことにしている。雑学だか何だか知らないがどこかで読んだような、調べたようなネタをなぞっただけのコラムは書きたくない。

 いつも、「普通でないコラム」を書きたいと思っている。読者諸氏もそんなところに興味を持って読んでくれていると思っている。そして、何よりも自分が読みたくなるものを(秀)を演じて書いている。

(秀)

from.としやさん

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