\  \ 

第461話 〜2001/3/9〜

■ベイブレード

 子供達の間で、かつてのベーゴマを原型としたコマ遊びが現在流行っている。「ベイブレード」というものだ。例によって、子供向けのマンガ雑誌で連載がスタートし、その後アイテムを商品化、そしてアニメスタートという、玩具市場の典型的なスタイルの展開を経ている。同じ様な手法を取ったものとしては、ポケモン、ミニ四駆、メダロット、遊戯王などなど、枚挙にいとまがない。

 私は約1年ほど前に雑誌での連載などの存在は知らずに、かつての郷愁だけでこのおもちゃを買った(実際は長男が占有状態)。郷愁と言いながらもベーゴマにことのほか思い入れがあったわけではない。むしろ私が生まれ育った場所にはベーゴマの文化はなく、デパートの催事場で買ってはみたものの、なかなかうまく回せないし、そもそも周りが持っていなかったために、すぐに飽きてしまった。しかし、ベイブレードは、従来のベーゴマのルールを残しながら、コマ自体は今風にアレンジされ、非常に回しやすくなっているし、プラスティックをベースにパーツ交換ができるといった、子供を煽る仕様もある。子供と遊ぶにはちょうど良いおもちゃとして私には見えたのである。

 ベイブレードの品切れが現在続いている。今年になってアニメの放送が始まってから、子供達が盛んに買い集め、あっと言う間に市場からものが消えてしまった。ほとんどの店で次の入荷がいつになるのか分からない状態らしい。ここに来て長男は得意満面である。かつては少数派で友達には見向きもされなかったおもちゃであったが、根気よくこの1年間買い集めたお陰で、今ではおそらく学校一番のブレード所有者のはずである。おまけに私もこの先見の目に対して尊敬されている。

 ある雑誌で実際に株を売買して、収支の状況を報告するコーナーがあった。それでベイブレード効果によるタカラの「買い」を指摘していた。確かにこの間のタカラの株価は大きく上がって、今年になっては倍の値段を付けている。約1年前にこのおもちゃを買ってブームを予見できたのなら、どうしてそのときにタカラ株を買っておかなかったかが悔やまれる。金儲けの種は子供向けのマンガ雑誌に眠っているということを今回発見した。次を狙おう。(実はタカラの株の高騰はベイブレードよりも「e-kara」によるものが大きいらしい)

(秀)


第462話 〜2001/3/12〜

■ペイデイ

 私には多少の収集癖がある。特に高価なものであったり、希少価値があるものを対象にしているわけでなく、あるカテゴリーに特化した形でのもの集めでもない。単に自己満足のコレクションでしかない。その一部についてはこれまでのコラムの中で都度紹介してきたが、その続きと言うべき話をこれから始めたい。

 基本的に私が集めている(正しくは捨てずに取っておく)ものは、これを捨ててしまうとこの世から絶滅してしまうようなものが中心である。しかも原体験を伴わないものには魅力を感じない。しかし、そのときにその重要性が分からずに手放してしまったものは数しれない。かつてのおもちゃで超合金やソフビ人形などは今もコレクターの間で珍重されているので絶滅することはないだろうし、そんなものは私のコレクションの対象にはならない。しかし、当時販売されていたキャラクターのボードゲームの類はそのような市場にもなかなか出てこない。捨てずに取っておけばと思うと今でも悔しい。

 総じてボードゲームとなるとメジャーだった億万長者ゲームですら、中古市場で見かけることは難しい。ましてその姉妹品的位置づけの社長ゲームとなるとまず無理だろう(プレステのゲームとしては最近復刻しているが)。さらにこれから話をしたい、私が最も好きだったボードゲーム「ペイデイ」はそのマイナーさのあまり、知る人がほとんどいないであろうボードゲームである。私もどこの会社が出していたものかも覚えていない。しかし、私自身のおもちゃランキングでは電子ブロックに次ぐ地位を占めている。昭和50年頃の話である。

 「ペイデイ」とは給料日という意味である。ボードがちょうどカレンダーになっており、サイコロの出目に従い駒を進めるだけだが、マス目に示されてめくるカードに様々な指令が書かれており、それでお金の請求などがやってくる。25日(だったと思う)が給料日でそこを通過するごとに325ドルがもらえた。当時に為替レートに比べてもずいぶんちんけな給料であるが、所詮はゲームだし、金銭感覚がまだいい加減な子供であるから、それほど問題ではない。

 このゲームは地元の玩具店のデッドストックを500円で手に入れたものだが、ひょんなことから手放してしまった。一緒にこのゲームをやった友達がいたくこのゲームを気に入り、その友達の他のおもちゃ(ツクダオリジナルの「デジタロン」)と交換してしまったのである。「そんなに気に入ってくれたなら」、と得意になってしまったのがいけなかった。子供らしいのか、子供らしくないのか?。こんな悔しさが私の収集癖の源泉であると最近ようやく気がついた。

(秀)

from.ひこちゃん
←ペイデイ(英語版)

第463話 〜2001/3/13〜

■分かりにくさの原因

 森君は相当往生際が悪い。辞めるのか辞めないのか、もっとはっきりと分かりやすく示して欲しいものだ。しかし、それ以上に不思議でしょうがないのは、マスコミの反応である。党の5役に総裁選の繰り上げ実施の意向を伝えただけのことを、どうして辞意表明と解釈できるのだろうか?。

 各マスコミは「事実上の辞意表明」などと言っているが、ちょっと苦しくないか?。希望的観測でやや先走りして「辞意表明」が間近であることを報じていたがために、強引にそう言い続けるしかないような気もしてくる。本人も、またその会議に参加した人々も誰も退陣表明などとは言っていない。「マスコミが書いただけ」と言うのが、本人の弁である。

 それでは肝心の前倒しされた総裁選はいつ行われるのだろうか?。これから協議して決めるらしい。彼やその取り巻きの動きが分かりにくいのは毎度のことであるが、今回の辞意表明にまつわる分かりにくさはマスコミに責任がある。「事実上の辞意表明」、「来月退陣」と報じるからにはそれなりの根拠があってのことだろう。それをもっと、鮮明に報じるべきである。各紙での記事に目を通してみたが裏付けとなるような記述は見つからなかった。報道内容の分かりにくさを政治の混乱とごちゃ混ぜにし、その矛先を総理周辺へと向けるのはごまかしとしか言いようがない。

(秀)


第464話 〜2001/3/14〜

■HEROの条件

 「僕はHEROになりたい」。これは子供の頃の話ではない。現に今そう思っている。何もキムタクのようになりたくて今から検事を目指して勉強しようと言うわけでも、甲斐バンドのまねをして1曲歌おうと言うわけでもない。格好良いHEROになりたいと本当に願っている。

 ところでHEROとは何ぞや?、という話であるが、一般に思い描く、正義の味方=HEROとはちょっと違う。「正義って何?」とますます話が複雑になってしまうだけだ。私が思い描く、まさになりたいHEROとは「いざというときに、『この人が来たからにはもう安心』と思われる人」である。そう思って、ウルトラマンや仮面ライダーを思い出すと、正義が何であるかはさておき(子供にそんなもんが分かるはずない)、彼らが登場すると人々は安心したものである。まさに彼らはHEROだった。

 仕事などで困ったときに、人々に頼られ、「彼が登場したから、もう大丈夫」、「彼に任せれば、安心」と言ってもらえるようになりたい。そこからいろいろとたらい回しなどせず、全てを自分のところで解決しなくてはならない。それがまさに、私が考えるHERO像である。そんなHEROが皆さんの周りにはいるだろうか?。HEROになるべく、まずは簡単なところから手始めに変身ポーズを考えるとしよう。「エステファイター」。なるほど、キムタクは本当にHEROだったんだ。

(秀)


第465話 〜2001/3/15〜

■まだ十分じゃない

 来賓として近所の中学校の卒業式に出て来た。結構冷静になって式全体を眺めれば、式次第というのも、なかなか練られた構成になっている。国歌斉唱、学事報告に引き続き行われるのは卒業証書の授与であるが、やはりこの順番は正しい。卒業生一人一人が証書をもらうとなると、それぞれが主人公になる瞬間であるが、これを敢えて式のクライマックスに持って来ないところが良い。

 これを式のサビの部分に持って来てしまうと、第一に、間が持たない。変化と抑揚の少ない時間が式の後半に30分以上にわたって展開されるとなると場が冷めてしまう。そして第二には涙で泣き濡れた顔を彼らは晒さなくてはならなくなってしまうので良くない。やはりクライマックスは送辞や答辞、それに歌でなければならない。このサビは時間の尺もちょうど良い加減である。そして、実に素晴らしい卒業式だった。ただ心残りは「仰げば尊し」を聞けなかったこと。最近は「仰げば尊し」を歌わない学校が増えたらしい。残念なことだ。

 式の途中に自分の卒業のときを思い出していた。しかも、高校の時の。卒業証書は式が終わって、各教室でクラス担任によって手渡された。一人一人に声をかけながら担任は証書を渡し、私の時には私がマイペースでいつも前向きであることを誉めて頂いた。それに対し、無意識に私の口を突いて出た言葉は「まだ十分ではありません」、だった。

 「まだ十分じゃない」というのは、確か佐野元春の曲の歌詞だったような気がする。そのときから早十余年。齢を重ねた分ぐらいは成長したと思うが、あの時の気持ちは忘れないし、今も、まだ十分でない事には変わりない。おそらく、これから更に10年経とうと、20年経とうと同じ事言い続けていることだろう。けどそれは自分がまだ前向きである証拠だと思えれば良い。「まだ十分じゃない」。先生、僕は元気です。

(秀)


 \  \