\
\
森首相の支持率低下とともに、にわかに「首相公選制」なる言葉が注目され始めた。折りからの政治不信もあり、政治への参加意識を高揚させる手段として効果があるのは事実だろう。支持率一桁台の首相が国会で信任されるのは誰の目にも不自然でしかない。既に、近い将来の首相公選制実現に向けて活動を行っている団体(「首相公選の会」)もあると聞く。
もし首相公選制をこの日本に持ち込むとすれば、まず憲法を改正しなければならない。第96条には両議院で議員数の三分の二以上の賛成の後、国民投票で過半数の賛成が必要と規定されている。与野党の枠を越え、国民の多数が賛同することが果たしてこの先あるのだろうか?。まずはこの点が大きな障害となる。
実際に国民が総理大臣を選ぶとなると、政治基盤が脆弱になることが予想される。各地の知事選挙で無党派の候補者が当選したりしているが、あのようなことが国政レベルで起きるとなると、いろいろと困った事が起きてしまう。「ダムの建設を中止します」や「銀行に外形標準課税を適用します」とぶちあげたら、自民党が黙っていない。また、「不良債権処理に公的資金を導入しません」、なんてことは国民の支持を得るかもしれないが、それ以上に世情の混乱でそんな支持も暴動となって打ち消されてしまう。第一、議会に支持基盤がない状態では議会運営もうまくいかない。そんなときは「解散!」ってやってしまうのかもしれないが、混乱や政情の不安定は加速する場合もある。
いざ、公選制になると田中真紀子や小泉純一郎、それに菅直人あたりが選ばれるのか。石原慎太郎、極端な例では長嶋茂雄など、単なる人気投票になる恐れもある。横山ノックが府知事になった事を思えば。国民からの直接選挙で選ばれたとなると、内閣が国会に連帯して責任を負う必要はなく、首相とは名ばかりで実際は大統領である。もちろん、その権力は強大である。ここで、もっと大きな問題にぶちあたる。天皇制との関係である。王制と大統領制が同居している国家はない(はず)。太平洋戦争後にもし国体が変わっていたら、日本も大統領制になっていたかもしれない。
この問題は単なる法的な手続きだけでなく、日本人のイデオロギーの根幹に関わる問題であることを踏まえた上で、賛否を論じて頂きたい。ましてや支持率の低い首相や政治不信の対抗策として論じるのは議論のすり替えのような気がしてならない。
(秀)
正式名称が分からないし、正式名称など存在しないかもしれないので、仮称扱いとして「チョキの会」と呼ぶことにしよう。酒の席で、その話を始めたのは元上司であるが、彼がそもそもの発起人であるかどうかも分からない。「他人への恨みが残ったまま死ぬ時は、手はチョキの形で死ね」、というものである。
会員が死んだ際には、まず遺族に「死んだ時の手の形はどんな形でしたか?。チョキでしたか?」と確認し、もしチョキだった場合は、故人の恨み事を書き記した遺言状なりメモ書きなりを探し出し、残った会員が故人の遺志を継ぎ、代わって恨みを晴らしてやらなければならない。まず、恨み事がある者はそれを書き残しておかねばならず、死ぬ時はチョキというルールである。
ふつうだったら、そのときの手はグーやパーなのらしいが、そこを敢えてチョキにして、会員へのメッセージを送るのである。遺族はピースマークあるいはVサインで死んで、故人が幸せなまま臨終を迎えたと思っているかもしれないが、実はその逆だったのである。チョキもできるだけ分かり易い形で、できれば両手が望ましい。一つ注意しなくてはならないこととして、伸ばすべき指は人差し指と中指で、親指と人差し指を用いた、いわゆる「田舎チョキ」は無効とされている。
臨終の機には何も思い残すことなく、ましてや他人への恨み事などないままに死んで行きたいと思いながらも、ファイナルジョークとして、後に残った者達を笑わしてやりたいという複雑な思いが頭の中を駆け巡る。その瞬間ともなると、きっと葛藤があるだろう。ボケてさえいなければ。
(秀)
指定されたその電話番号に電話を掛けると、電話に出た女性が「斎藤幸子係です」と答えた。「『係』?」。べつに電話に出た彼女は斎藤幸子ではない。きっと彼女の周りに斎藤幸子という名前の女性は存在してしていないと思う。私が電話をしたのは、ひいきの劇団「ラッパ屋」のチケット予約電話だった。「斎藤幸子」というのは芝居のタイトルなのである。姓名判断で最悪の画数を持つ彼女の物語である。この日曜日にその芝居を見て来た。
ラッパ屋を主宰する鈴木聡氏は、ここ数年テレビドラマの脚本を手掛けるなど、かなり有名になって来た。3つ前のNHKの朝ドラ「あすか」は氏の脚本によるものだった。また、劇団の役者達もテレビに露出する機会が増えた。以前から応援して来てこんなにうれしいことはない。しかし、チケットの入手がますます困難になっていくのには困ったもんだ。最近は友人達と予定を合わせている余裕などなく、さっさとチケットを一枚抑え、一人で出掛ける事にしている。
芝居の中にはそれぞれのテーマやメッセージが折り込まれているものだが、ラッパ屋は「幸せって何だろう?」、「人生って何だろう?」ということを最近とみに追い求めているようだ。今回またその答えが一つ私の胸にも届いた。誰もがきゅうきゅうとして、ビル・ゲイツのような金持ちや勝利者を目指す必要はなく、どこかに行けば幸せが待っているわけでもない。もちろん、占いや運命なんかもない。まだ見ぬ幸せを追い求めているのも幸せだし、「実はこんなものかもしれない」と身近な幸せに気づいてしまったこともまた幸せだと思う。単に面白いだけでなく、こんなことまで気付かしてくれる、こんな芝居を見られることを幸せと感じる、そんな幸せも自分にはOK、有りだと思う。
(秀)
新年度も始まり、街に新入社員があふれる季節である。会社に近づき、電車を乗り換える度に自分の勤めている会社の新人らしい者達と電車に乗り合わせる。社員バッチを見れば分かる。「新入社員だったら、せめて最初の数ヶ月ぐらい白いワイシャツを着ろよ」、と言ってやりたい。皆同じように黒系のスーツにこれまた黒系のシャツを着ている。まるで偽物ホストのようだ。
このことを家に帰って妻に話したら、「そういうのが気になるのは、おじさんになった証拠よ」、なんて言いやがる。悔しいのでその翌日は色シャツを着て会社に出掛けた。ペパーミントグリーンの。
女性は我々男性が思った以上に男性の服装をチェックしているようだ。とりわけ、ネクタイへのチェックが厳しい。そのスーツやシャツに合っているかどうかだけでなく、毎日顔をあわせているような場合は、そのローテーション(何本ぐらい持っていそうか?)まで観察されている。
以下、私のオフィスでの会話。
「○○さん、最近ずっと同じネクタイですね」(女性の同僚)。
「えっ!、バレてた?」(男性の同僚)。
別に連日のお泊まりでもないようだ。ちなみにこの男性は独身である。
「ダメですよ。ちゃんとしとかないと。いつ、(女性との)突然の出会いがあるか分からないし」。(さっきの女性の同僚)
その会話を聞いていて、私が突然口を挟んだ。
「大丈夫ですよ。突然出会ったような人なら、昨日と同じネクタイをしているのかどうか分かりっこないですから」。
(秀)
from.莉香さん
職業の欄には何のためらいもなく「会社員」と書きだして、10数年が経つ。ということは、○○株式会社の社員ということであるが、この「社員」という言葉を法律用語として適用した場合、私は社員ではなくなる。商法に出て来る社員とは出資し会社を経営している人を指す。だから私のような者は従業員というのが正しい。
まあ、一般的には社員で通用するが、わざわざここで、こんな使い分けをするのには意味がある。先日私の会社でも株主総会が行われた。この日ばかりは株主様々である。ここで、「会社は社員のものである」、というのは法律用語としては正しい。但し、一般的な、社員=従業員、という意味で用いると間違いになってしまう。法律的には会社は株主のものであって、決して、従業員や取締役のものではない。
「私の会社」あるいは「うちの会社」という言い方をする人がいるが、この表現は、(商法上の)社員は使っていいが、従業員は使ってはいけない。「私の(が)雇われている会社」、というのが正しい。だから、先日株主総会を行ったのは、私が雇われている会社と言わなければならない。「私が勤めている会社」というのもセーフである。頭の中が混乱して来た人は最初からもう一度読み返して欲しい。
(秀)
\
\